ヴェーダのメッセージ

日付:1989年10月3日

神の愛の化身である皆さん! ヴェーダはマントラを啓示された聖仙(リシ)たちの記録です。ヴェーダは時と場所によっても変わらない深遠な真理を述べています。ヴェーダは三界の住人に繁栄と安全を得る方法を示します。

「ヴェーダ」という言葉は、「知る」という意味の「ヴィド」を語源としています。ヴェーダは不純物を取り除いてハートの純粋さを得る方法を説いています。

ヴェーダは無限であると宣言されています。つまり、俗人の理解を超えています。初めは1つのヴェーダしかありませんでした。それを学ぶにはかなりの時間と努力が必要でした。ヴィヤーサは、人々がヴェーダの教えを学んで実践できるよう、それをいくつかのパートに分けました。ヴィヤーサは数え切れないほどの詩節の中からいくつかのリク〔讃歌、リチュ〕を集めて『リグ ヴェーダ』の中に収め、いくつかのヤジュス〔祭詞〕を集めて『ヤジュル ヴェーダ』を作り、いくつかのサーマン〔旋律〕を集めて『サーマ ヴェーダ』を編纂しました。

『リグ ヴェーダ』はさまざまな神を称賛する、讃歌で成り立っています。『ヤジュル ヴェーダ』は神々を礼拝するためのマントラから成っています。『ヤジュル ヴェーダ』のマントラはヤーガ〔供犠〕やヤグナ〔護摩儀礼〕を行うときと、慈善行為を行うときに用いられます。それぞれのヴェーダには、ブラーフマナ〔祭儀書〕、アーランニャカ〔森林書〕、ウパニシャッド〔奥義書〕という3つの部分があります。

ヴェーダのマントラの目的

ヴェーダのマントラは、社会や世界の繁栄を促進するためのヤーガやヤグナの際に活用されました。ヴェーダは豊作をもたらすよう適時の降雨を確実にし、すべてに繁栄が訪れるよう意図されました。カルマ カーンダ(儀式の道)の一部を構成するヴェーダのマントラは、公共の福利と幸福の促進の助けとなると考えられました。

『ヤジュル ヴェーダ』はもっぱら神への礼拝に捧げられます。『ヤジュル ヴェーダ』は、『クリシュナ ヤジュル ヴェーダ』〔黒ヤジュル ヴァーダ、本集の中にマントラの説明が含まれるもの〕と『シュクラ ヤジュルヴェーダ』〔白ヤジュル ヴェーダ、本集がマントラのみから成るもの〕という、伝統的な2つの区分に基づいた二系統で成り立っています。『シュクラ ヤジュル ヴェーダ』は、ブラフマ サムプラダーヤ(ブラフミンの伝承)に属し、『クリシュナ ヤジュル ヴェーダ』はアーディティヤ サムプラダーヤに属します。『シュクラ ヤジュル ヴェーダ』の信奉者が主に北インドに限られるのに対して、『クリシュナ ヤジュル ヴェーダ』の信奉者は主に南インドにいます。

ヴェーダは、1.シルティ、2.アヌッシラヴァ、3.トライー、4.アームナーヤム、5.サマームナーヤム、6.チャンダス、7.スワーディヤーヤム、8.ガマ、9.アーガマという9項目に基づいて発展しました。

「シルティ」とは、マントラの正確な唱え方の訓練という方法で、師からヴェーダを習い、その結果ヴェーダの吟唱が上達するという過程を指します。音は、師が唱えるのを真剣に集中して聞くことによって、師が教えた通りに再生しなければなりません。ヴェーダのマントラはこのように、「聞くこと」によって完全に学ばれるのです。

「アヌッシラヴァ」とは、師から学んだマントラを、慎重に、絶えず「聞くこと」によって純粋さを保ちつつ、繰り返す練習を指します。

次は「トライー」についてです。元来、『リグ ヴェーダ』、『ヤジュル ヴェーダ』、『サーマ ヴェーダ』の3ヴェーダのみが、人間を起源としないアポウルシェーヤ(すなわち神託)であると考えられていました。『アタルヴァ ヴェーダ』は『ヤジュル ヴェーダ』から取った讃歌で構成したものです。最初の3ヴェーダは、神を起源とすることから、トライー(3つ組)と呼ばれました。

「アームナーヤ」とは「ムナー」という語根音節を絶え間なく黙想することを指します。この修行によってヴェーダの知識を得ることをアームナーヤ、あるいは「サマームナーヤ」と呼びます。

「チャンダス」の意味の一つに、秘密裏に保護され、慎重に伝播(でんぱ)されるべき知識、というものがあります。ヴェーダもまたチャンダスと言われています。『サーマ ヴェーダ』全編はチャンダスで成り立っています。

「スワーディヤーヤム」とは、家系を継承する中で父親から息子へとヴェーダが代々伝承される過程を指します。ヴェーダの知識は本を通して得るものではありません。それは年月をかけて師から弟子に伝えられました。師から弟子へと直接伝えられたために、ヴェーダの知識はスワーディヤーヤと言われています。

「ガマ」と「アーガマ」とは、ヴェーダの起源である神の息の呼気と吸気に付けられた名前です。つまるところ、ヴェーダは神の息から流れ出たものを表現しているのです。神からの啓示としてヴェーダのマントラを聞いた偉大なリシたちは、8つの基礎的な文字の中にその鍵を見出しました。音楽的な表現を有するあらゆるヴェーダのマントラは、「A, Ka, Cha, Ta, Tha, Pa, Ya, Sa」の8文字に載せて覚えられました。偉大な預言者たちはこの8文字を使ってヴェーダを育てました。

ヴェーダをないがしろにすることが霊性の衰退の原因

それぞれのヴェーダには、いくつかのシャーカー(部門)とウパシャーカー(小部門)があります。『リグ ヴェーダ』の20の部門と21の小部門の中で、現在残っているのは3つだけです。同様に、『ヤジュル ヴェーダ』の96部門のうち、時の破壊に耐えたものは2つだけでした。『サーマ ヴェーダ』には千の部門がありましたが、今残っているのは3部門だけです。残ったヴェーダの数少ない部門におびただしい量の霊的な宝が含まれているのであれば、もし、すべてのヴェーダが完全に残っていたら、バーラタ人〔インド人〕のどれほどすばらしい霊的遺産となったことでしょう! ヴェーダを無視したために、バーラタ人の霊性の知識と科学の知識は目にも明らかな衰退に遭ったのです。その結果、バーラタ人の考え方は狭くなりました。視野の広さが失われました。今日では、ヴェーダに対して何の愛も敬意も抱いていない人の数が増えています。ブラフミンの間でさえ、ヴェーダへの興味と関心が減退しています。

だれがブラフミンでしょう? ブラフマンとはマントラの具現という意味です。ブラフマンの具現なるマントラを絶えず唱える者だけがブラフミンと呼ばれていました。今では、ブラフミンはこれらのマントラを忘れてしまいました。現代の教育の影響、金銭欲、そして私欲が膨らんだせいで、ブラフミンは持ち前の神性を忘れてしまいました。その結果、平安と安全がその犠牲となっているのです。

ヴェーダとは何を意味するのでしょう? その一つの意味はエールカ(認識)です。もう一つはテーリヴィ(知性)です。3つ目の意味はヴィヴェーカ(識別)です。識別力をつけたいと願う人は皆、ヴェーダに深い関心を抱くべきです。

今日、知性は、もっぱら地位や所有物を得るため、安楽や便利さを確保するために伸ばされ、使われており、良い性質を育くみ、神を求める良い人間になるために使われることはありません。それらの知的能力のすべてがつまらない目的のために誤用されています。

ヴェーダの世界観

ヴェーダは、人間的価値に従った生活をし、善良な人生を送るときにだけ人は真の人間になる、と強調しています。近ごろでは、ヴェーダを唱える人の多くがヴェーダの趣旨を理解するのに困難を感じています。意味を完全に飲み込んでマントラを唱えるとき、人はより大きな喜びを引き出すでしょう。そうして初めて、人はヴェーダの完全な神聖さと力を体験します。

ヴェーダは、高貴で神聖なものすべてを包含する、普遍的な世界観をもっています。ヴェーダはすべてに対するサーマットワ(平等)の原理を説いています。ヴェーダは同一性の概念を述べています。ヴェーダは苦楽を同じ平静さで受け入れるよう人に教えました。

今日、マントラを唱えている人たちはその深い意味をつかんでいません。たった一つのマントラだけでも完全な意味を理解していれば、それで十分です。毎日、シャーンティマントラが唱えられています。「オーム サハナーヴァヴァトゥ、サハナウ ブナクトゥ、サハヴィーリャム カラヴァーヴァハイ」。このシャーンティ マントラにはどんな意味がありますか? それは「一致団結して共に動こう。互いに一体となって調和のうちに生きよう」というものです。このマントラには何と広い視野があるのでしょう!

そのような寛大なマントラさえもが後年、狭い意味で解釈されてきました。そのため今では、かの時代に行き渡っていた平等と友愛の精神の千分の一すら見出だすことができません。人々の態度と気持ちが人間のレベルより下に減退してしまったために、不和を生み出す力がとても多く現れてしまいました。

ヤグニャの意義

『リグ ヴェーダ』には33の神々が出てきます。その中で最も重要な神は太陽神です。太陽神の力は世界中に影響を与えています。あるヤグニャでは、太陽はリトウィクと呼ばれています。太陽の別名はホータとブラフマーです。太陽神こそが、ヤグニャにかかわる供物を神々に運んでいるのです。火の神アグニは太陽の一つの具現です。アグニはアグニ自身の姿をもっています。アグニには両親がいます。今朝ヤグニャが始まる前に、2人の聖職者が、ヤグニャの火を起こすためにアラニと言う2本の棒を擦(す)りました。火の神は、生まれるとすぐに自分の親を焼き尽くしてしまうと言われています。下の棒が母親で上の棒が父親です。この2本の棒を擦ることで生じた火は棒を焼き払います。火から上がる炎は火の神の舌です。火から発せられる光は多くの神々の頭です。アグニの原理はすべての人に内在しています。その内的意味は、すべての人は本来神であるというものです。

マントラを唱えて火の中で神に供物を捧げるとき、神の恩寵が平和と豊饒(ほうじょう)という形で人々に降り注がれます。「火のとおりに煙は作られる」ということわざがあります。煙のとおりに雲は作られます。雲のとおりに雨は作られます。雨のとおりに作物は作られます。作物のとおりに食事は作られます。食事のとおりに知性は作られます。近ごろでは、ヤグニャで上がった煙で雲が作られていないため、人々が摂取する食事は知性の成長に役立っていません。ヤグニャ クンダ〔護摩壇(ごまだん)〕から上がった煙が雲に入ると、神聖な雨が降り、作物の浄化を促し、摂取する食事を神聖なものにします。その結果、人々も神聖化されるのです。

犠牲から得る至福

一方、もし、今、人々が悪い思いと邪(よこしま)な思惑(おもわく)で満ちているとしたら、それはそうした神聖なヤグニャやヤーガが行われていないからです。多くの人々が、「ヤグニャヤーガの火への供物だと言って大量のギーと材料を使って何になるのか?」と毒舌を吐きます。その目的は内的真理を知る者にのみ明らかになります。農夫は田を耕して一袋の米粒を蒔(ま)きます。無知な者には、それが貴重な穀物を捨てているかのように見えるでしょう。一方、農夫は、やがて百袋の米が収穫できることを知っています。それと同じように、マントラと共にギーやほかの貴重な物をヤグニャに供えると、やがて無数の利益がもたらされます。人々は何を供えたかだけはよく知っていますが、あとからやって来る御利益についてはまったく知りません。

今日のティヤーガ(犠牲)のみが明日のボーガ(楽しみ)に導くと知るべきです。その犠牲が心を尽くしてなされるとき、見返りはそれに等しく豊かなものとなるでしょう。

残念ながら、今の人間は犠牲を払うことなど夢にも思っていません。犠牲を装ってもそれは見せかけにすぎません。真の犠牲とは何であるかを認識している人はごくわずかです。その結果、財産を持っているにもかかわらず、裕福な人たちは平安も安全も備えていないのです。裕福な人たちには、自分の家の門前にいる貧困者たちにわずかな食べ物を与える気さえありません。ところが、この守銭奴たちは寺の實銭箱には相当な額のお金を落とします。そうした利己的な人は人類同胞の内にある神性を見ることができず、命をもたない物に供え物をするのです。

主と取引することなかれ

あらゆる富の源である神があなたのわずかな献金を必要とするでしょうか? あなたは自分の財産を理にかなった目的のために使わなければなりません。低所得者や貧乏人を助けなさい。神に捧げものをするときですら利己的な動機が見られます。神からの大きな見返りを期待して小さなものを捧げています。人は神に祈ります。「神様! 宝くじで百万ルピー当たったら、一万ルピーをお捧げします」何という取引でしょう? 今、このような愚かな考えがはびこっているのは残念なことです。

その原因は、人々がヴェーダの真義を忘れてしまったことにあります。彼らは、モグラが盛り上げた土を捧げて、山を要求します。これではまったく信愛も漫画です。今、増えているのはそのようなニセ信者です。彼らは年がら年中、神との卑しい取引を結ぼうとしています。あらゆる祈り、あらゆるサーダナが利己主義と私欲で満ちています。

だれもが利益を求めますが、犠牲を払う覚悟はできていません。神に捧げる犠牲とは何でしょう? 第一にあなたの悪い性質です。良い性質を得なさい。あなたの狭い了見を恥じなさい。広い視野を養いなさい。今、最も必要とされるのは犠牲の精神を育てることです。あなたが財産と所有物をすべて差し出すことは期待されていません。必要なのは苦しんでいるものを見たときに情けを感じることです。心(ハート)が和らぐとき、そのこと自体が犠牲となります。私たちが今日目にするのは心の和らぎではなく心の硬化です。

この世を去るとき、自分の財産を持っていくことはできません。今、生きている問に、できる限り必要とされる人たちに手助けをしなさい。ヴェーダの真髄は、至高の美徳として犠牲を賞賛することです。

生き方に何の変化も見られず、あなたの真の本質を理解していないのであれば、あなたが学んだこと、聴いたことはすべて何だったのでしょう? 至高の知識とは犠牲の価値を理解することです。それは無限の喜びの源です。それは不死に通じています。

神に達するための最高の手段

ヤグニャの儀式から学ぶべき教訓は、神に達する一番の手段が犠牲であるということです。ヴェーダが真に意味するものは、永遠の至福を確保するために、犠牲の精神を培わなければならないこと、ヤーガの意義を理解しなければならないこと、そして、敬度な生活を送らなければならないということです。

ヴェーダは主にプラヴリッティ マールガ(行為の道)にかかわりがあります。物理学、化学、植物学、経済学、音楽など、あらゆる知識の部門はヴェーダに論じられています。これらは外界にかかわることです。そのため、ヴェーダは二元的であると考えられてきました。ウパニシャッドだけが、自己へと向かうニヴリッティ マールガ(英知の道)を説いています。これは、ダルマ、アルタ〔富〕、カーマ〔欲〕、モークシャ〔解脱〕という4つのプルシャールタ、つまり、人間の4つの目的のうち、ヴェーダは最初の3つのみとかかわってると考えられてきたという意味をもちます。ウパニシャッドは、至高なるものの本質は知識の道によってのみ理解することができる、と述べています。知識にはパラヴィディヤ(高次の知識)とアパラヴィディヤ(低次の知識)の2種類があります。今、教育のプロセスで学ばれているものはすべて、アパラヴィディヤ(低次の知識)の部類に入ります。ダルマとアルタとカーマに関する知識もこの部類に入ります。モークシャ(解脱)に関する知識だけがパラヴィディヤ(至高の知識)に相当します。私たちはパラヴィディヤを獲得しなければなりません。この知識はヴェーダーンタ〔ウパニシャツドの別名〕に見出すことができます。ウパニシャッドはヴェーダの末尾に来ます。すべてのヴェーダの精髄はウパニシャッドの中に見出せます。

ヴェーダが二元的であるのに対して、ヴェーダーンタはアドワイタ(不二一元論)です。不二一元論はアーナンダ(至福)を体験する方法です。自我(「私」)の原理はヴェーダの中で優位を占めています。ヴェーダーンタは、自我(「私」や「私のもの」)を除去することだけが、悟りに導くことができると述べています。「私」なるものは根絶されなければなりません。「私」なるものに執着する限り、あなたは現象界に縛られ、高次の知識を得ることはできません。ですから、皆さんはヴェーダとウパニシャッドの違いを理解しなければなりません。

ウパニシャッドに詳説されているヴェーダの本質を理解し、そのメッセージを実行に移して初めて、皆さんはアドワイタ(不二一元論)の本当の意味がわかるでしょう。


出典:『サイラムニュース』 No.106, pp.2-9.