ガナパティとは

ガナパティ プラールタナーは次の1節ではじまります。

ガナーナーム トワー ガナパティグム ハヴァーマヘー カヴィム カヴィーナームパマッシラ ヴァスタマム

(半神たちの主であり、障害を取り除くガナパティ神に祈りを捧げます。あなたは完全なる知識を備え、すべてをご存知です。あなたはだれよりも深い知識をお持ちです。私はあなたの偉大さを知ってあなたのもとに来ました。)

ガナパティという名前の意味は何でしょうか? また、ここでいう知識とはどのような知識のことでしょうか? 1997年10月7日の御講話でスワミは次のように説明してくださっています。

ガナパティという名前の意味は何でしょう? ガナ〔群〕はどこにいるのでしょう? ガナはどのような姿をしているのでしょう? これらを調べれば、グニャーネンドリヤ〔グニャーナ・インドリヤ、5つの知覚器官=目(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚きゅうかく)、舌(味覚)、皮膚(触覚)〕とカルメーンドリヤ〔カルマ・インドリヤ、5つの行為器官=口(発声)、手(操作)、足(移動)、生殖器官、排泄器官〕がそのガナであることを見出すでしょう。この10の器官の主は心(マインド)です。心(マインド)より上の識別機能はブッディ(理智)です。10の器官と心と理智で、共にガナを形成しているのです。

ガナという言葉の「ガ」は、ブッディ(理智)を表しています。「ナ」はヴィグニャーナ(高次の知識や智慧)を意味します。ガナパティは智慧と高次の知識をつかさどる神です。「智慧と高次の知識は外界にあるのか、それとも人間の内で見出されるべきものなのか?」という質問がなされるかもしれません。ガナパティは人間一人ひとりに内在している、というのがその答えです。外側の世界にガナパティを探す必要はありません。ガナパティは理智と智慧という形をとって人間一人ひとりの中に住んでいます。

ガナパティが「パールヴァティー タナヤ」(パールヴァティーの息子)と述べられるときの、パールヴァティーとは誰ですか? パールヴァティーはプルティヴィー(母なる大地)を象徴しています。誰も皆、母なる大地の子どもです。「パールヴァティー タナヤ」の意味は、ガナの主であるガナパティはシャクティ(神聖エネルギー)を象徴するパールヴァティーの息子である、というものです。

パールヴァティーとガナパティへの崇拝は後世に始まったものではありません。ガナパティは「リグ ヴェーダ」の数ヶ所で褒め讃えられています。ガナパティはヴェーダ同様、古来よりのものです。ガナパティは、ヴェーダにおいてもウパニシャッドにおいても、数ヶ所で言及されています。「マハーナーラーヤノーパニシャット」〔マハーナーラーヤナ ウパニシャッド〕の中にはガナパティに向けた多くの祈祷文があります。「タイッティリーヤ ウパニシャッド」にもガナパティへの祈祷文があります。ガナパティ ガーヤットリー マントラも先に述べたウパニシャッドに加えられています。

ガナパティにはヴィナーヤカ〔障害を取り除く者、師、リーダーの意〕という名称もあります。ガナパティより上の主はいないからです。ガナパティは全能であり独立しています。ヴィナーヤカの原理の深遠な意味を認識することなく、人々は外側の姿だけを見て、俗世の言葉で礼拝を捧げています。

主人をもたない者、ヴィナーヤカは、どのような姿で人に内在しているのでしょう? アートマの姿です。アートマに主人はいません。心(マインド)がインドリヤ(感覚器官)の主人です。インドラ神がインドリヤの主人です。人々はインドラは天界を支配していると考えています。しかし、インドラはマナス(心、マインド)の主としてすべての人々に内在しているのです。マナス(心、マインド)の主であるブッディ(理智)は、まさにグニャーナ(叡智、意識)の具現です。グニャーナとはどのような種類の意識でしょう? それは絶えざる統合意識です。それは増大することも減少することもなく、不変の状態を保っています。それはヴィグニャーナ(高次の知識や智慧)と呼ばれています。残念なことに、今日では、ヴィグニャーナは科学と等しいものと見なされています。科学はヴィグニャーナではありません。科学は現象的な知識です。科学は論証に基づいたものです。

今の学生たちは、学術的な研究が成功して良い学者となるために、ガネーシャを礼拝しています。実のところ、そうした勉強で学ぶことは皆、教育や学習とは呼べますが、ヴィッディヤー(真の知識、真の叡智)と呼ぶことはできません。深い内的意味をもつヴィッディヤーという言葉に現代の学術的な教育を当てはめるのは、言葉の使い方が間違っています。ヴィッディヤーは人の細胞一つひとつを動かしている力の意識です。人は、この意識を通して、生まれてから死ぬまでの人生の出来事の意味のすべてを学びます。この意味において、ヴィッディヤーは「生きる方法」です。皆さんが行うことはどれもヴィッディヤーの一部です。ヴィッディヤーは人生の統合意識です。ヴィッディヤーは自らの総体の中にすべてを包含しています。皆さんがヴィナーヤカに祈るべきものはこの種の総体的な知識です。学位を取得することはヴィッディヤーには相当しません。最期の瞬間までいかにして幽霊〔ブータ、粗大元素(地・水・火・風・空)を指す〕と手を切るべきかを知ることが、ヴィッディヤーです。人の生涯は一つの連続した学びのプロセスであると見なすべきです。この精神で知識を追い求める者が、真の学生です。学生はヴィッディヤールティ(ヴィッディヤー + アールティ = 知識を捜し求める者)と呼ばれます。捜されるべき知識は書物の知識でも現象界の知識でもありません。捜されるべき知識はアートマ グニャーナ〔真我の知識〕です。最高の知識は真我の知識です。「バガヴァッド ギーター」は宣言しています。

アーディヤートマ ヴィッディヤー ヴィッディヤーナーム

(私は諸知識の中ではアートマに関する知識である)

〔バガヴァッド ギーター10章32節の一部〕

人生の真の目的は、この知識を得ることです。ヴィナーヤカはこの知識の教師です。この教師は皆さんの内にいます。ヴィナーヤカの原理は一人ひとりの中に存在します。