ヴェーダの詠唱

不幸なことに、今日、ヴェーダは十分に保護されていないため、卓越した地位を失っています。ヴェーダを真剣に学びヴェーダに含まれるマントラを定期的に唱える人はとても少なくなってしまいました。ヴェーダを規則的に学びヴェーダの指示を実践するなら、人間はあらゆる種類の富を授かります。ヴェーダには人の生活と運命を支配する基本的な原理が含まれています。ヴェーダは全人類の幸福のための神からの贈りものです。ヴェーダは宗教やカーストや国籍その他をもとに区別をするようなことはありません。ヴェーダのマントラはすべての人が唱えることができます。宗教やカーストや国籍によらず、すべての人がヴェーダを学び、唱えることができるように、すべての国にヴェーダが広がることがスワミの望みです。

『アティ・ルッドラ大供犠祭』 pp.15-16

(スワミは、シュリ サティヤ サイ小学校の生徒でイランから来た一人の少年をお呼びになり、ヴェーダのマントラを唱えるようにとおっしゃいました)

このイランからの少年が、どれだけきれいにヴェーダのマントラを唱えたか見ましたか! この少年はイスラム教徒です。イランでは人前でラーマの名前を口にすることすら許されません。もしこの子に名前を尋ねたなら、「僕の名前はサティヤです」と言うでしょう。(スワミは少年に「君の名前は?」「君の両親の名前は?」「ヴェーダのマントラを上手に唱えて、すべてのヴェーダのマントラを習いなさい」「リグ ヴェーダを知っているかい?」とお尋ねになりました。少年は全聴衆からの拍手喝采に応えて「ルッドラム」と「シリー スークタム」を完全なイントネーションと発音で唱えました)

ヴェーダの中にはすべてがあります。すべての宗教、すなわちヒンドゥー教・イスラム教・キリスト教の真髄があります。キリスト教徒も同じような方法で神の栄光を歌います。イスラム教徒も同じようにして神に祈ります。ですから、すべての宗教にとっての神は同一なのです。違うのは名前だけです。イスラム教徒は1日5回神に祈ります。ヒンドゥー教徒も朝夕に神に祈ります。ヴェーダはヒンドゥー教徒だけのためにあるものだと考えてはなりません。ヴェーダはすべての人のためにあります。唯一かつ普遍なるもの、それがヴェーダです。ヴェーダは人間のあらゆる種類の苦しみを軽減することができます。ですから、ヴェーダを習うのは誰にとっても良いことです。アメリカからの帰依者がここに来てヴェーダを習っています。ロシアやドイツでもたくさんの人が朝夕にヴェーダのマントラを唱えています。ヒンドゥー教徒は毎日唱えていないので、ヴェーダのマントラを忘れつつあります。ですから、誰もヴェーダを忘れてはなりません。ヴェーダとヴェーダーンタ(ウパニシャッド)はあなたの両親のようなものです。常にヴェーダとヴェーダーンタを覚えているべきです。決して忘れてはなりません。

『サイラムニュース』No.122, pp.10-11

ヴェーダは神の姿そのものです。パンチャ ブータ(五大元素)をなだめる多くのマントラがあります。五大元素は私たちの息吹そのものです。五大元素は私たちの生命を維持します。世界そのものが五大元素の現れです。しかし、人々は五大元素に感謝することを忘れています。何と罪深いことでしょう! 私たちは不必要な情報を頭に詰め込み、その結果として五大元素を尊重する義務を怠っています。すべての人はヴェーダを学習し、それについて黙想し、心の底から唱える必要があります。もしヴェーダをただ習うだけで唱えないのなら何の意味もありません。中にはここにいるときはマントラを唱えていても、外に出ると忘れてしまう人もいます。どこに行っても構いませんが、最低限、心の中ではマントラを唱えるべきです。絶対にヴィッディヤ ドローヒ(獲得した知識を不当に扱う者)になってはいけません。ヴィッディヤ ドローヒはダイヴァ ドローヒ(神を不当に扱う者)にもなります。そして、最後には神の恩寵を得る機会を失ってしまいます。

2004年10月19日の御講話

皆さんは、自分の利益と自分の幸福、そして人類全体の幸福のために、この神聖なヤグニャ(インド・プッタパルティで行われた大供犠祭)に参加しました。このヤグニャは、一握りの人のためになされたのではなく、世界全体のためになされました。ここで唱えられたマントラは、空中で混ざり合い、全宇宙に広がりました。これらの神聖な音は、私たちの心に入り、心を清めました。ですから、このヤグニャで唱えられたマントラはこの場所だけに限定されていると考えてはなりません。マントラは全世界に広がりました。このヤグニャは、インドのためだけになされたのではなく、世界のすべての国のためになされたのです。国が違えば話される言葉も違うかもしれません。しかし、気持ち(バーヴァ)には何の違いもありません。アメリカ、ロシア、アフリカ等、多くの国の人々が、大変熱心にこのヤグニャに参加しました。彼らもまた、ヴェーダのマントラを学んでいます。先月の26日、ドイツから約80名の人が特別機でプッタパルティにやって来ました。彼らは全員、女性も男性もヴェーダを唱えました。彼らは私に言いました。『スワミ! 私たちの国を守ってくれているのはマントラに他なりません。ですから、私たちはヴェーダのマントラを、夜明けから日暮れまで唱えています』ヴェーダのマントラを唱えることには、ほんのわずかな利己心も存在しません。ヴェーダのマントラは人類全体のためのものです。ヴェーダのマントラは、あらゆる人の幸福に欠かせないものです。ヴェーダは個人(ヴィヤシュティ)を超えて、共同体(サマシュティ スワルーパ)に関心を持っています。西洋人でさえも、ヴェーダのメッセージをすべての国の人々に広めるため、今、ヴェーダの原典を出版しています。西洋人にとってヴェーダのマントラを唱えるのは確かに難しいことです。なぜなら、西洋人には様々な音節を発音するのが困難だからです。マントラの中には発音のややこしいものもあります。しかし、真剣な努力によって、西洋人はそうしたマントラを正しく唱えることを学んでいます。固い決意さえもっていれば、人は何でも成し遂げることができるのです。

『アティ・ルッドラ大供犠祭』 pp.127-128

たとえヴェーダを唱えることができなくても、信愛の心でその音を聴きさえすれば、あなたはより高いレベルへと高められるでしょう。母親の歌う子守唄の意味がわからなくても、子どもはその節を聞くと眠りに誘われるものです。同様に、ヴェーダの詠唱を一心に聴くことは、計り知れない恩恵を与えてくれます。もし、ヴェーダを反芻し、生活の中でそれを実践するならば、どれほど大きな至福を手に入れることができるか想像できるでしょう。ヴェーダの讃歌はナーダ ブラフマン(ナーダ〔音〕として表れた神)で成り立っています。それにはとても効力があります。寺院へ行くと信者たちは鐘を鳴らしますね。一般的には神の注意を引くためにそうするのだと信じられています。つまり、神様は眠っているので鐘を鳴らして起こさなければならない、ということなのでしょうか? 神はつねに起きていますし、すべての人の祈りを聞いています。それはちょうど、あなたが世話や援助を受けたいと思っている重要な人物に差し出す名刺のようなものです。鐘を鳴らすのは、ただ神の注意を自分の方に向けることにすぎません。ヴェーダの響きも、お寺の鐘を鳴らす音のようなものなのです。

『バジャン 神への讃歌』 pp.332-333

皆さんは、ラーヴァナが4つのヴェーダと6つのシャーストラ〔天啓経典〕をマスターしていたことを聖典で読んだことがあるでしょう。これらの聖典を学んだことによってラーヴァナの中に何か変容はあったでしょうか? いいえ、ラーヴァナはダイヴァトッワ(神の性質)を育てる代わりにダーナヴァットワ(悪魔の性質)を育てました。 ラーヴァナの10の頭は4つのヴェーダと6つのシャーストラを表しています。ラーヴァナが会得した知識を実践しなかったため、ラーマは決戦でラーヴァナの頭を切り落としました。単に聖典を学ぶだけ、ヴェーダを唱えるだけでは、何の変容も生まれません。この御教えを強調するために、ラーマはラーヴァナの10の頭を矢で射落としたのです。ラーヴァナの魂が肉体を離れようとしたその時、ラーヴァナは自分の誤りに気づき、それらを後悔し、それによって、 神聖になりました。

神が説くすべてのことは、人間の利益と幸福のためです。ですから、ヴェーダの教えのうち一つでも実践に移すなら、それで十分です。神の教えを実践に移すことは、すべての人々にとって自然なことであるべきです。

プラシャーンティ ニラヤムでは、小学生でさえ上級生に加わってヴェーダを唱えている光景が見られます。しかし、あらゆるヴェーダを知っていても、それらを実践に移すために必要な知識はもっていません。ただヴェーダを唱えるだけでは、あまり役には立ちません。

あらゆる所に常に存在するのは神のみです。世界は幻影にすぎません。神はあらゆる場所に存在するという聖なる教えは、すべての人々に普及しなければなりません。多くの霊性修行者たちがヴェーダを唱えたり、教えたりしています。次の例を考えてごらんなさい。カセットテープやCDは、ただ音を出すだけで、それ自体がメロディーを体験することはありません。自分が教えていることを実践しなければ実りはありません。ですから、人は聖なる教えを認識し、理解して、実践しなくてはなりません。

クリシュナ神は自分の教えを実践し、またすべての人がそれに倣うべきだと主張しました。『マハーバーラタ』を見ると、多くの年長者たちは、偉大な学者ではありましたが、会得した知識を実践に移さなかったことがわかります。今もそれと同じことが起こっています。神に好き嫌いはまったくありません。神にとっては、すべての人が等しいのです。とはいえ、神は、各人が学んだことをどれくらい実践に移しているのかを見ています。

2004年9月6日午後の御講話

マントラの詠唱は、定められたカルマ(行為)の実践といつも同時に行うべきです。こうした実践によって、人は神を悟ることができるのです。マントラを聞くだけで実践しないのであれば、決して幸福も平安も得ることはできません。神を悟るためには、ヴェーダに定められている戒めを実践しなければなりません。確かに、ヴェーダの詠唱を聞くことでも、そのこと自体心(マナス)を清めることはできます。それはシャブダ ブラフマン〔音として顕れた神〕です。音は神の第一の属性であり、ヴェーダの音はすべてに遍満しています。ヴェーダの及ぼす影響が衰えたために、今日、世界中で数々の不正、もめごと、そして混乱が横行しています。水、空気、食べ物、音――これらはすべて公害によって汚染されています。わたしたちは汚れた生活を余儀なくさせられています。呼吸する空気自体が汚染されているとき、どうやって汚れのない生活を送ればよいというのでしょう? 心の純粋さを確保するためには、環境とその構成要素はきれいなものであるべきです。こうした公害の原因は、ほかのどこでもなく、わたしたち自身の行動にあります。わたしたちが口にする言葉は何であれすべて大気全体に広がって行きます。ヴェーダを詠唱し、神の栄光を歌うことで、世界中の大気を浄化することができます。古代の聖賢たちは、全世界の大気を清めるために、森に移ってヴェーダの力強いマントラを詠唱したものです。

『バジャン 神への讃歌』 pp.331-332

すべての人がマントラをいっせいに完璧な調和で唱えたとき、ブラフマン(神)があなたの前に現れます。太古の聖賢や先見者たちは、「ヴェーダーハメータム プルシャム マハーンタムー アーディッティヤヴァルナム タマサッ パラスタート」(私は何十億の太陽の輝きをもって光り、無知という暗闇を超越した至高の存在を見た)と宣言しています。ヴェーダの音は非常に神性です。それは、シャブダ ブランママイー、チャラーチャラマイー、ジョーティルマイー、ヴァーングマイー、ニッティヤーナンダマイー、パラーットパラマイー、マーヤーマイー、シリーマイー(音の具現、動と静の具現、光の具現、言葉の具現、永遠の至福の具現、完璧さの具現、迷妄の具現、富の具現)として高く賞賛されています。ヴェーダを習得することはすべての人にとって必修課題です。もし、それが不可能であれば、最低限、神の御名を唱えるべきです。あなたがどのマントラを習うにしても、それを正確に唱えることができるようにしなければなりません。そうでなければ、まったく習う必要はありません。私は、ここでマントラを習ってもバンガロールに行くと忘れてしまう学生たちをたくさん見ています。彼らはそこへ行き、目上の人たちを満足させるために一つか二つのマントラを唱えます。ヴェーダは、宣伝の為に唱えるのものではなく、至福を体験するという自分の恩恵を得るために唱えるものです。

2004年10月19日の御講話