プルシャ スークタムの詩節に関するバガヴァンの御言葉

サハッスラシールシャー プルシャハ

サハッスラークシャッ サハッスラパート


サハッスラ:千の、シールシャ:頭、プルシャ:神、アクシャ:目、パート:足

神は千の頭と千の目と千の足を持つ

あなたがどこを見ても、神はそこにいます。あなたが誰を見ても、神はその人の中にいます。神は別の姿を持ちません。すべての姿は神の姿です。それゆえ、ヴェーダは、「サハッスラシールシャー プルシャハ サハッスラークシャッ サハッスラパート」と宣言しているのです。

2010年11月22日の御講話


ヴェーダの「プルシャ スークタム」は、「サハッスラシールシャー プルシャハ サハッスラークシャッ サハッスラパート」と述べています。ここに集まる何万人もの人々の頭と眼と足は、私の頭と眼と足です。彼らの面倒を見、彼らを尊重し、彼らの世話をしなさい。そうすれば、ジャパや瞑想や礼拝をしたことになります!

1970年3月4日の御講話


あなた方は誰もが一つの寺院であり、自分が気づいていようがいまいが、その中心には主なる神が祀られています。主なる神は、「プルシャ スークタム」〔プルシャ讃歌〕の中で、千の頭を有する者と述べられています。これは、神にはきっかり千の頭があって、それ以上でもそれ以下でもない、などということを意味しているのではありません。これは、「私の前にある千の頭には一つの心臓があるのみであり、それがすべての頭に生命とエネルギーを与えている、そして、その心臓こそは主なる神である」という意味です。隣人たちから孤立している人は誰もいません。すべての人は、無数の肉体の中を流れている一つの生き血によって繋がっています。これはサナータナ ダルマ(永遠の宗教)の特別な教えであり、世界が必要としているものです。しかし、この一つの貴重なメッセージを、バーラタの子どもたちは不幸にも忘れてしまっているのです。

1966年2月18日の御講話


人間への奉仕は、あなた方が神への奉仕と呼んでいることよりも価値があります。神はあなた方の奉仕を必要としません。人を喜ばせなさい。それは神を喜ばせます。「プルシャ スークタム」〔プルシャ讃歌〕は、神には千の頭と千の目と千の足があると詠っています。つまり、すべての人、頭と手と目を持っているものは、すべて神であるということです。皆、ばらばらではないのです。神には千の心臓があるとは言っていないことに注目しなさい。心臓は一つだけです。同じ一つの血液がすべての手と頭をめぐっているのです。すべての人は手足です。手足の世話をするとき、あなたは人の世話をしているのです。人に奉仕するとき、あなたは神に奉仕しているのです。

1966年2月19日の御講話


「プルシャ スークタム」(至高なる神人への讃歌)は神を千の頭と千の目と千の足をもっていると描写していますが、これは、神は無数の姿をとって宇宙にみなぎっていると宣言しているのです。また、これは、すべてのものは神の一部であるということを意味しており、無数の姿で構成されている宇宙は「ヴィシュワ ヴィラータ」、すなわち、宇宙的存在と描写されています。ヴィシュワ ヴィラータは、ラヴィ・ヴァルマといった画家たちによって描かれた人物でもなければ、詩人によって描写された人間でもありません。ヴィシュワ ヴィラータは宇宙的神人の姿です。

私たちは、この、無数の存在を伴う多面的な宇宙を、一なる神聖実在の宇宙的顕現であると見なさなければなりません。神聖原理(ダイヴァタットワ)は最も小さな体にも、宇宙全体にも内在しています。

1980年11月22日午前の御講話


「プルシャ」という語は、完全すなわち「満」というものを体験した者を指しています。プルシャスークタ〔プルシャ讃歌〕は、プルシャのこの側面を、千の頭と千の目と千の足を有する者と描写しています。人はその解釈において、その本当の内的意味をつかんでおらず、それどころか、間違った意味にとらえていることもあります。「サハッスラシールシャー プルシャハ」〔プルシャは千の頭を持つ〕という言葉は、千の頭ということだけを考えて限定的に解釈すべきではありません。それが真に意味しているのは、プルシャのこの側面には幾千もの頭が含まれているということです。「頭」という語から、人々はすぐに普通に世の中で見る頭を連想し、千の頭のある主を思い浮かべます。これは正しくありません。頭という語を使うとき、この文脈では、そこにはプラグニャーすなわち英知という意味が含まれています。すべての頭の中に存在するプラグニャーすなわち英知の完全性が、ここでのプルシャの概念を表しています。

プルシャを「サハッスラークシャ」〔千の目のある者〕と描写するとき、それは主には千の目があるという概念を礼拝するということを意味しています。ヴェーダの典拠によれば、この内的意味は、さまざまな人の目から発せられるエネルギーと光輝のすべて、すなわち、そのエネルギーの完全性は、パラマートマを表すというものです。これが、神をサハッスラークシャ、千の目のある者、と呼ぶことの内的意味です。

私たちはプルシャを、「サハッスラパート」、すなわち「千の足のある者」とも描写します。神を千の頭のある者、千の目のある者、千の足のある者と描写することによって、私たちは何を意味し、そのように神を描写することによって、私たちはどんな利を得るのでしょうか? 肉体を運ぶ体力は足にあります。私たちの足がそれほどの力を含有しているために、私たちはどれほど体が大きくても楽に体を移動することができるのです。完全なる理解力すなわちプラグニャーナ、それから、完全なる輝き、そして、歩行能力に、ブラフマンという名前が与えられているのです。

視力を有して見ることのできる能力、聞くことのできる能力、心を働かせることのできる能力、肉体の重さに耐えることのできる能力は、神によって与えられたものです。これらすべての力は神によって与えられたものなのですから、神のみが、プラグニャーナム ブラフマーすなわち英知の化身、と呼ばれるのです。私たちが「プルシャ エーヴェーダグム サルヴァム」〔この一切はまさしくプルシャである〕と言うとき、それは自らの内にその力の一切を持つ者であるパラマートマは、その力の一切を現してあらゆる場所を動き回っている、ということを意味しています。

1974年5月夏期講習におけるババの御講話(3)

ブラーンマノー スャ ムカマースィート

プルシャの顔は僧侶階級になった

バーフー ラージャンニャッ クルタハ

プルシャの肩は武士階級になった

ウールー タダッスャ ヤッドワィシャハ

プルシャの太ももは商人階級になった

バッドビャーグム シュードロー アジャーヤタ

プルシャの足は労働者階級になった

至高神のさまざまな側面に高低の余地はありません。人類のさまざまな区分にも優劣の余地はありません。「プルシャ スークタム」〔プルシャ讃歌〕は、バラモン階級を宇宙のプルシャ〔至高神〕の顔、クシャトリヤ階級を手、ヴァイシャ階級を太腿、シュードラ階級を足と言明しています。その一節が明確に伝えている比喩的な意味はともかく、神は一つの甘美さであり、英知であり、恩寵なのですから、どの部分も他の部分と同じように甘く、光り輝き、優美なのです。砂糖菓子の人形は手も足も頭と同じ砂糖でできており、全身すべてが甘いのです。

1961年6月17日の御講話

ヴェーダによると、カーストに優劣はありません。砂糖人形は、すべてが砂糖です。「プルシャ スークタ」という讃歌は、4つのカーストが神の体の4つの部分になったと述べています。その意味は、どの人も等しく高尚な生まれであり、等しく重要であるというものです。口は歩けず、足は話せません。命じるのは声であり、守るのは腕です。戦うことが自分の正当な義務だと感じ、(また、その気持ちに従う人)が、クシャトリヤ〔武士王侯階級〕であり、ヴェーダとシャーストラを学ぶことが自分の義務だと感じる人が、ブラフミン〔僧侶階級/バラモン〕です。それが自分の権利だと感じている人ではなく!

1962年11月26日の御講話

チャンドラマー マナソー ジャータハ

プルシャの心から月が生じた

チャックショーッ スールヨー アジャーヤタ

プルシャの目から太陽が生じた

ムカーディンドラシチャーグニシチャ

プルシャの顔からインドラとアグニが生じた

プルシャ スークタム〔プルシャ讃歌〕は、「チャンドラマー マナソー ジャータハ」と謳っています。月には16の相があります。それと同じく、心にも16の相があります。シヴァラートリの夜には、月の16相のうち15の相は目に見えず、一つの相が見えるだけです。心もそれと同じ状態にあります。もしシヴァラートリの間に神を瞑想するなら、神に近づくことができます。シヴァラートリのこの上ない神聖さは、神を瞑想することによって神と一つになることにあります。

1983年2月11日の御講話

今日は満月です。ヴェーダは、『月は、至高のプルシャの心から生まれ、太陽は目から、火とインドラ神は口から生まれた』と言っています。月は心を司る神です。心が純粋な愛で満たされた日こそが、真の意味での満月の日です。皆さんの心を、満月のように明るく輝かせなさい。これは、皆さんが心を愛で満たしたときに、初めて可能になります。

1999年7月28日の御講話


ヴェーダは宣言しています。「チャンドラマー マナソー ジャータハ チャックショーッ スールヨー アジャーヤタ」。月は心を司る神であり、太陽は視力を司る神です。月は発光体ではなく、太陽からの光を反射することで光ります。その光は同一です。光は太陽から発し、月に反射されます。しかしながら、太陽から直接射す光が明るく輝かしいのに対して、月に反射された光はやわらかで弱まっています。その光は目に涼やかに映ります。日光はグニャーナすなわち叡智の象徴であり、月光はプレーマ〔純粋な愛〕の象徴です。

2000年5月21日の御講話

ヴェーダーハメータム プルシャム マハーンタム

我らはかの偉大なる神をハートの中に見た

アーディッティヤヴァルナム

タマサッ パラスタート

我らは太陽のように燦然と輝く彼を

無知の暗闇の向こうに見た

古代の聖賢たちは、自分たちは真摯に神を探求したことによって神を体験することができた、ということを世に知らせました。「我らは、かの燦然と輝く聖なるプルシャ(神)をハートの中に見た」、「我らは無知の暗闇の向こうに彼を見た」と、聖賢たちは明言しました。しかし、人生の目的は、単に神のヴィジョンを手に入れることでも、そのヴィジョンの至福を味わうことでもありません。砂糖を愛する者は、砂糖そのものになろうとしなければいけません。

ブランマヴィッド ブランマイヴァ バヴァティ

(ブラフマンを知るものは、ブラフマンそのものとなる)

宗教は、この変容を引き起こすことを目指しています。宗教は、まず、人を人たらしめることで、人を神(マーナヴァ)に変えようとしているのです。宗教は、それほどの高尚な目的を持っているというのに、低級な目的のために使われて辱められています。

1989年7月23日の御講話


ヴェーダは宣言しています。「ヴェーダーハメータム プルシャム マハーンタム アーディッティヤヴァルナム タマサッ パラスタート」(「プルシャ スークタム」より)。古代の聖賢たちは人類に明言しました。「おお、人よ! 我々は神を(人の内に)見た。神は自らの内に隠れる太陽の光輝をもっているが、(無知の)暗闇に横たわっている」。すると人々は尋ねました。「どこで神を見たのですか? 内ですか、外ですか?」。これに対して、聖賢たちはこう答えました。「アンタルバヒシチャ タット サルヴァム ヴィヤーピャ ナーラーヤナ スティタハ」「神はあらゆる場所にいる、内にも外にも」(「ナーラーヤナ スークタム」より)。それから聖賢たちはこう付け加えました。「人よ、そなたの内には神がいる。そなたは太陽の光輝をもっているが、無知の暗闇がその輝きを覆いつくしているのだ」。聖賢たちはあらゆる場所で神を見たのです。

2000年5月23日の御講話