プラナヴァを唱える礼拝
日付:1987年10月1日
場所:プラシャーンティ ニラヤムのプールナチャンドラ講堂
ダシャラー祭、聖音オームに関する御講話より
宇宙の中心から放たれるプラナヴァ〔原初の聖音オーム〕に耳を傾けよ
熱心に、その響きで耳を満たせよ
その音は、願望成就の樹であり、あらゆる願いを叶えるものであると知れ
この善き忠言の賢明な言葉を忘れてはならない
〔テルグ語の詩〕
ヴェーダーナーム サーマ ヴェードースミ
(諸ヴェーダの中で、私はサーマ ヴェーダである)
と、ギーターチャーリヤ〔ギーターを教える者〕であるクリシュナ神は宣言しました。
サームナー ウドギートー ラサハ
(サーマの賛歌の真髄はウドギーターである)
と、チャーンドーギヤ ウパニシャッドは言明しています。ウドギーターというのはプラナヴァのことです。サーマ ヴェーダの真髄はプラナヴァです。プラナヴァはまさに生命の息吹です。さらに経典は、
オームカーラム サルヴァ ヴェーダーナーム
(オームカーラ〔聖なる音節オーム〕はヴェーダの中で最高のマントラである)
とも宣言しています。こうしたことから、賢者の目にはオームカーラがどれほど重要であったか、そして、オームカーラにはどれだけ大きな意味が付随しているかがよくわかるでしょう。「オーム」という一音節は、アルファベットの文字の中でも傑出しています。オームはパラマートマ(至高なる遍在の神我)を象徴しています。サーマ ヴェーダはプラナヴァの具現です。
サーマ ヴェーダの音楽
ヴィヤーサ仙は、まず、ジャイミニ大聖仙〔六派哲学のミーマーンサー学派の開祖〕にサーマ ヴェーダを説きました。そして、それはジャイミニ大聖仙から弟子たちへと代々伝えられ、その過程でいくつもの分派(シャークハー)が派生しました。ヴェーダから枝分かれした1000の分派のうち、今も行者たちの間に残存しているのは3派だけです。それ以外の派は、時の経過に揉まれて失われてしまいました。現存する3派とは、グジャラート州のナガル ブラーフマナ〔婆羅門〕たちによって引き継がれたコーウトゥマ派〔コーウトゥミー〕、マハーラーシュトラ州に信奉者がいるラーナーヤニー派、そして、カルナータカ州で継承されているジャイミニ派です。
コーウトゥマ派とラーナーヤニー派の間には、大きな違いはありません。コーウトゥマ派とラーナーヤニー派における主音節は、「ハー」、「フー」、「ラー」、「ニー」です。ラーナーヤニー派における主音節は、「アー」〔アーアーアアー〕、「ウー」〔ウーウーウウー〕、「ラー」〔ラーアーアアー〕、「ニー」〔ニーイーイイー〕で、吟唱する時には、これらの音を長く伸ばします。〔*こちらでスワミの実際の発音を聞くことができます〕
ジャイミニ派のものは短いのですが、他の派のものよりも重要です。ジャイミニ派は、その音楽的な形式の際立った特色ゆえに、より広い地域で、より幅広い人気を博しています。ジャイミニ派には、アーランニイ(森の賛歌)とガーナム(音楽の賛歌)という2つの型があります。さらに、それらの賛歌には4つの種類があります。それは、(1)グラーミーナ ガーナム(村の歌)、(2)アーランニャカ ガーナム〔森の歌〕、(3)ウーハ ガーナム、(4)ウーハヤ ガーナム、です。
グラーミーナ、すなわち村の歌は、かつて村人たちが日々の営みやお祭りの時に皆で踊った際によく歌われていた歌です。村人たちはそうした歌を歌って楽しんでいました。
アーランニャカ ガーナム〔森の歌〕は、森に牛の放牧に行く時に歌われていました。それらの歌は大声でのびのびと歌われていました。村人たちは、木の下に座って主を称える歌を歌いながら、それらの歌から生じる喜びを味わっていました。
ウーハ ガーナムは、今の時代の映画の挿入歌に似ていますが、映画の挿入歌では、歌い手が悲しみや喜びを印象づけようとして、わざとらしく声を抑揚させ、歌のムードを悲しみか喜びのどちらかで表現しています。そこには純粋な思いが欠けています。
ウーハヤ ガーナムは、歌い手が自分の感情を自由に表現し、自分の喜びを他の人に伝えようとしながら、それと同じくらい自分も歌を楽しむという類の歌です。
サーマ ヴェーダは以上の4種の音楽を世にもたらしました。
プラナヴァは生きとし生けるものすべての内に存在する
プラナヴァ マントラ〔オームという真言〕は、以上の音楽のどれよりも高い地位にあります。プラナヴァは、すべてに浸透し、絶えず存在しています。私たちがプラナヴァを聞いていない時は一瞬もありません。さらに、私たちはプラナヴァがなければほんの一瞬でも存在できません。プラナヴァは、生きとし生けるものすべての内に存在しています。プラナヴァは、すべての音の基である原初の音です。プラナヴァはずっと、ブラフマンと同一視されてきました。バガヴァッド ギーターは、オームの一音はブラフマンを表している、と表明しています。オームがすべてに浸透しているのと同時に、ブラフマンもすべてに浸透しています。
アヤム アートマ ブランマー
(このアートマはブラフマンなり)
というヴェーダの格言は、アートマとブラフマンは一つであり同じであるということを指摘しています。したがって、オームとブラフマンとアートマは、同一の存在を示しているのです。
夢見の状態における光輝、そして、輝けるもの
すべての人間は、日常で4つの意識状態を体験しています。それは、(1)起きている状態(ジャーグラト)、(2)夢を見ている状態(スワプナ)、(3)熟睡状態(スシュプティ)、(4)最も高い意識状態(トゥリーヤ)です。
起きている状態というのは、人が5つの生気、五感、心(マインド)、理智、自我(エゴ)を通して現象界を理解し、経験している状態です。同様に、身体には五つの鞘があります。これらはすべて共に、起きている状態での現象界の体験を引き起こしています。アートマの存在がなければ、起きている状態、すなわち現象界の体験はあり得ません。それゆえ、起きている状態におけるアートマは、ヴィシュワと称されます。それはさらに、ヴァイシュワーナラ、あるいはヴィラートプルシャとも呼ばれます。クリシュナはアルジュナに神のヴィシュワルーパ(宇宙普遍相)を示したと言われています。その真の意味は、クリシュナはアルジュナに、神はあらゆるところに、あらゆるものの内に、つねに存在するということを示したということです。全宇宙は神の投影なのです。
アートマは、起きている状態では粗大な姿をまとった現象宇宙として現れていますが、夢を見ている状態では微細な姿(スークシュマ)をまとって現れます。夢を見ている状態で人が体験する物や姿は、夢を見ている状態においてのみ、その現実性を保っています。それらは別の意識状態では存在しません。夢を見ている状態で体験するあらゆる喜びと悲しみは、独自の、本人が創り出したアートマの体験です。十人が同じ部屋で眠っても、夢の体験は十人十色で、共通するものは何もありません。これは、各人がそれぞれ自分の夢見の状態を作り出して、その夢を体験しているということを意味しています。
夢を見ている状態では、一つの輝く光が存在しています。その光はテージャスと称されます。夢を見ている状態での体験者としてのアートマは、タイジャサ(輝けるもの)と称されます。夢以外でのタイジャサの存在については、簡単な例によって説明することができます。目を閉じた時、私たちは暗くて何も見えないと言います。この闇を体験できる者というのは、いったい誰なのでしょう? 目が閉じられている時に、それを暗くて黒いと描写し、その闇を体験している、何らかの存在がいるのです。その存在が、タイジャサ(輝けるもの)と呼ばれているものです。なぜなら、その存在は、夢を見ている状態の時には、内なる一つの光として存在しているからです。
プラグニャーは永遠の至福の状態
3番目の状態である、熟睡状態(スシュプティ)では、起きている状態と夢を見ている状態の体験はありません。これが熟睡状態です。五感はすべて心(マインド)に溶け込み、何も見えず、何も想像できません。この状態では、プラグニャー(一貫意識)のみが存在します。人がこの熟睡状態を認識できるのはプラグニャーのおかげです。すべての感覚器官は完全に静止しています。呼吸だけが依然として行われています。熟睡状態で人が絶対実在の連続性を認識し、至福感を経験するのは、プラグニャーのおかげです。
五感のすべてが停止しているにもかかわらず、真我だけが、呼吸となって顕れたプラグニャーの姿をまとい、意識を保っています。それゆえ、ヴェーダはこう宣言しています。
プラグニャーナム ブランマー
(プラグニャーすなわち一定した一貫意識はブラフマンなり)
プラグニャーとは不変にして永遠の至福の状態である、とウパニシャッドは描写しています。プラグニャーは、永遠の実在であり、起きている状態では肉体として、夢を見ている状態ではアンタフカラナ(内から動機を与える者)として、熟睡状態ではアートマとして、等しく存在しています。まさにこうした理由により、プラグニャーは、一定した一貫意識として特徴づけられているのです。プラグニャーは、ブラフマンあるいはアートマと異なるものではありません。ブラフマンもアートマも目には見えないので、疑念が生じることがあるかもしれません。けれども、プラナヴァ〔オームの聖音〕を理解することによって、ブラフマンとアートマとの同一性を体験することができます。
どうすればプラナヴァを認識し、プラナヴァを聞くことができるのでしょうか? プラナヴァは知覚できるものではありません。プラナヴァは吸収されるものに似ています。可視世界で見られるあらゆるもの、音の領域で聞くことのできるあらゆる音、ハートの多種多様なあらゆる体験――これらはすべて、プラナヴァに包含されています。たとえ熟睡状態にあっても、息を吸っては吐くというプロセスは途切れることなく続いています。呼吸を維持しているのはオームカーラ〔聖なる音節オーム〕です。それゆえ、オームカーラはブラフマンとアートマと同一である、と宣言されているのです。
4番目の状態は、最も高い意識状態(トゥリーヤ)です。これは言葉では表現できないほどの完全なる至福の状態であり、そこでは普遍意識のみが体験されます。これはたとえようもないものです。
オームカーラは四面のブラフマー神と見なされる
4つの意識状態と同じように、オームカーラ〔AUM〕も4つの構成要素があります。それは、「ア カーラ」(A)、「ウ カーラ」(U)、「マ カーラ」(Ma)、そして、「アドヒラタ」(鼻歌をするときの「ンー」という音)です。
「ア」(A)はオームカーラの一番始めの音です。それはアルファベットの最初の文字です。「ア カーラ」は、起きている状態ではヴィラートプルシャ〔宇宙体〕の具現と見なされ、さらには、現象世界を支配する力、維持者、すなわちヴィシュワ〔全宇宙、創造物〕として擬人化されています。
「ウ」(U)は夢を見ている状態を象徴する音節です。「ウ カーラ」はオームカーラの2番目の音です。それはテージャスすなわち光輝の姿をまとっています。それはすべてを照らし、あらゆる闇を追い払います。
3番目の音は「マ」(Ma)です。それはプラグニャー(一貫意識)の状態を象徴しています。それはすべてのものの内なる意味を明らかにします。それは一体化した実在、アンタラヤーミ(内なる管理者)、スートラートマカ(すべてをつなぐ糸のようなまとめ役)とも称されます。こうしたさまざまな名称は、アートマがすべてのものの内在者であることを示しています。アートマに姿はありません。このようにして「マ」はこの深遠なる真理を示しているのです。
「ア」の後、「ウ」と「マ」が合わさって4番目の音が現れます。これは最も高い意識状態(トゥリーヤ)の状態で聞こえる音です。これは「ンー」という振動で「アドヒラタ」と称されます。
オームカーラは4つの音を有しているので、4つの顔を有するブラフマー神と見なされています。また、オームカーラは、シャブダ ブラフマン、すなわち普遍的な音の姿をまとったブラフマンとも称されています。シャブダ ブラフマンは、ガーナ ブラフマン(音楽としてのブラフマン)を包含しています。シャブダ ブラフマンは、いたるところに浸透しています。シャブダ ブラフマンが持っている、すべてに浸透するという特質は、神に起因する8つの普遍的な力の中で最も重要なものです。
サーマ ヴェーダの内的意味を理解せよ
オームカーラの類まれな霊的意味を理解して体験した時、そして、人が見聞きするあらゆるものはプラナヴァから生じたことを実感した時、その時にのみ、人はサーマ ヴェーダの内的意味を理解することができるでしょう。サーマ ヴェーダとプラナヴァを正しく理解した時、音の普遍的な力を知ることができます。その知識は外界を探求しても得られません。それは内側から得なければなりません。あらゆる光と音の源であるプラナヴァスワルーパ〔オームの化身〕は人の内にいるというに、それを外界で探すことが何の役に立つでしょう? まず必要なのは、主は普遍的な音として顕現する者であり、プラナヴァカーラ(プラナヴァの姿)となって自分の中に内在している、という信念を持つことです。
この信念を育むためには、不純な言葉を避ける必要があります。悪い言葉を話したり悪い話を聞いたりする余地があるべきではありません。しゃべりすぎは慎まなければなりません。無駄話、人を中傷するような噂話、そして、陰口は、きっぱりとやめるべきです。話をするには多量のエネルギーを伴います。決してそのようなことでエネルギーを浪費してはなりません。これは日常生活の中で養わなければならない最高位の自制です。
人の一生は一つの長いマントラ
サーマ ヴェーダの重要なメッセージがあります。サーマ ヴェーダは、神聖で純粋な言葉と音には本来、神性と歓喜が備わっている、と宣言しています。誰にも苦しみをもたらすようなことは言ってはなりません。誰であれ、そのようなことを言う人は人間以下です。
マントラを唱える時には、そのマントラの意味を理解しているべきです。さもなければ、復唱は機械的な儀式になってしまいます。人の一生は一つの長いマントラです。さらに、人の一生はタントラでもありヤントラでもあります。それほど神聖な授かりものは、それ相応に役立たせるべきです。
今日普及しているのは1つか2つのヴェーダだけです。私たちは、ヴェーダのメッセージの甘露のような価値を理解することによって、その豊かさと栄光のすべてを復興しなければなりません。神への信心を取り戻し、神への信愛を人生における頼みの綱としなければなりません。信愛を持っていないなら、受けた教育の一切は無価値です。
信愛と犠牲
神の愛の化身たちよ! 人間には、何よりもまず二つの特質が必要です。それは神への信愛と、犠牲の精神です。犠牲がなければ、信愛はあり得ません。犠牲は不死への鍵です。人は、自分本位や自己中心という渦巻きに巻き込まれています。そうした我執はいつまで続くのでしょうか? なぜ、この世の財産というつまらない虚飾のために、神を中心とした生活という長く続く至福を断念してしまうのですか? 献身の精神で人類への奉仕に身を捧げ、あなたの生活を昇華させなさい。
疑いなく、職は生計を立てるために重要なものです。しかし、神を信じつつ、国に奉仕し、真理を守るためには、職さえも犠牲にする覚悟をしなければなりません。財産や人間関係はすべて、つかの間のものです。永遠のものは二つだけです。それはダルマと善い評判(キールティ)です。善い評判は善行を通じてのみ得られるものであり、人から贈られるものではありません。あらゆる悪を避け、善き仲間と交わり、思考と言葉と行動において善くありなさい。
サーマ ヴェーダで宣言されているように、神はオームカーラの姿をまとって遍在している、ということを実感しなさい。神は遍在であるという意識を持ってオームカーラ ウパーサナ〔聖音オームを繰り返し唱える礼拝〕を行って、人として生まれた目的である神への帰融を遂げなさい。
出典:http://www.sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19871001.html原典:Sathya Sai Speaks, Vol.20, Ch.24.