ヴェーダナーラーヤナン先生のご講演と質疑応答

『サイラムニュース』2006年9・10月号および2006年11・12月号より

2006年7月15~23日、プッタパルティにて、第3回SSOJ全国サーダナ キャンプが開催され、日本人グループが日本に帰国する前夜、シュリ サティヤ サイ高等学校のサンスクリット語教師であられるK. R. ヴェーダナーラーヤナン先生より、ヴェーダについてのご講演をいただきました。そのご講演内容をご紹介します。

皆さん、サイ ラム。まず最初に、神様ご自身の前で素晴らしいパフォーマンスをされた皆さん一人ひとりに、心からおめでとうございます、とお伝えしたいと思います。

昨日、スワミはほんとうにお喜びになっていらっしゃったということです。私は、いつもスワミのお近くにいらっしゃる方がたとお話をする機会がありますが、日本の方がたが唱えたプログラムは、ほんとうに素晴らしかった、驚くべきことだとおっしゃっていたそうです。

昨日皆さんがなさったことは、実に素晴らしいことだと申し上げたいのです。というのは、あれほどのことを達成するのは、並大抵のことではないと思うからです。皆さん方はさまざまな努力をしますが、そうした努力を神様の御足に捧げたとき、それは無私の行為「ニシカーマ カルマ」と呼ばれます。

スワミがいつも私たちに教えてくださいますが、「シラッダーヴァーン ラバテー ニャーナム」という言葉があります。これはスワミの大学のモットーとしても掲げられている言葉で、「本当に興味をもっている人は知恵を得る」という意味です。今のシラッダーヴァーン ラバテー ニャーナムというその言葉を現実に実践した姿が昨日のパフォーマンスだったと思います。その成功が現実のものとなったのは、皆さん方に学ぼうという愛があったのと、もう一方からは神の祝福があったからであり、そのために、あれだけのことができたのだと思います。

今、ラーマンさんからお聞きしたのですが、サンスクリット語にくらべると、日本語は母音の数も子音の数も非常に少ないわけです。そして、そのように限られた音を基盤にしてサンスクリットのたくさんの音を学ばなければいけないというハンデが最初にあります。マントラを皆さんが学習するにあたって、皆さんは、ラーマンさんや、他のスワミの学生たちの唇の動きをビデオで収録して、それを見て皆さん方が努力を重ねて勉強したということをお聞きしました。

現在、ラーマンさんはいったん日本を離れていらっしゃいますし、また、今、日本にいるヴェーダを伝えたサイの学校の卒業生たちも、仕事が非常に忙しい状況で、ラーマンさんから、今後、日本の帰依者はどのように学習を進めていけばいいでしょうか、と助言を求められました。皆さんにこれだけの熱意をもって学ぼうという気持ちがあるのですから、必ずスワミが、他の方がたを送ってくださるに違いありません。ヴェーダを教えてくださる方がたが日本に来るときまで、皆さんは心の中で、スワミご自身が自分の目の前に座っていらっしゃると考えて、スワミご自身から学んでいるという気持ちで学習してください。というのも、私たちやスワミの学校の学生たちは、結局スワミの道具に過ぎず、皆さんは、ほんとうはスワミからヴェーダを教わっているからです。

 ここで、インドの経典『マハーバーラタ』に書いてある、現実に起こった話をご紹介したいと思います。弓の師匠として有名なドローナチャリヤという方がいたことをご存知だと思います。パーンダヴァ兄弟は、ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァの五人の兄弟がいましたが、この先生にとっては、その中でアルジュナが一番かわいい弟子だったのです。ドローナチャリヤは、このアルジュナを世界一の弓の名手にしようと心に決めました。このころ、エーカラッヴィヤという少年がいました。エーカラッヴィヤは部族の子どもなのですが、彼も弓の技術を学びたいと熱心に思っていました。エーカラッヴィヤも最高の先生から弓を学びたいと思っていたので、ドローナチャリヤに近づこうと思ったのです。エーカラッヴィヤが先生に近づいた時に、ドローナチャリヤは、すでにアルジュナを世界一の弓の名手にしようと心に決めていたので、彼を弟子として受け入れませんでした。

しかし、エーカラッヴィヤは前からドローナチャリヤをマーナスィカグル(心に決めた師)として定めていたのです。エーカラッヴィヤは森の中に戻って、ドローナチャリヤの像を作りました。その像を前に置いて、ほんとうにそこにドローナチャリヤがいると思って、その前で練習を続けたのです。そして、エーカラッヴィヤが一生懸命練習を積んだので、アルジュナよりもはるかに弓の腕が上がったということです。それはなぜかというと、「シラッダーヴァーン ラバテー グニャーナム」、つまり、それだけの興味と熱意があるところに知恵が生まれる、という原理のもとに彼が上達したわけです。それだけの興味があれば、ひとりでに神の恩寵がもたらされるということなのです。

 さて、サンスクリット語に関してですが、皆さん方一人ひとりが、サンスクリット語というものの背景を、ある程度知っておくことが必要と思います。

私は『サンスクリット語の個人教授』というタイトルのCDを持っていますので、私(ヴェーダナーラーヤナン先生)からそれを誰かにお渡しして、そのCDを皆さんがコピーしてお使いいただくとよいと思います。それは、コンピュータに入れて、出てきた文字を一文字ずつクリックすると、その発音が出るようになっています。

サンスクリット語には色々な音がありますが、それぞれの音が、いくつかのグループに分類されています。一つひとつの音が口のどこの部分でどのように発音されているかということに意識を集中していると、正確な発音が分かるようになります。皆さんにはきっとそれができると思います。というのも、昨日、皆さんが唱えたのを聞いていて、私たちは一箇所も発音の誤りを見つけることができなかったからです。私の友人は、「もしスピーカーで音だけを聞いていたら、日本人が唱えていたのかインド人が唱えていたのか誰も区別がつかなかった」と言っていました。(拍手)

ここからは、皆さんのご質問にお答えしましょう。

Q1:brahma はブラフマなのかブランマなのか教えてください

とてもよい質問です。サンスクリット語では、h と m が続いている時には、h と m の発音の順番を逆にするというルールがあるのです。ですから、ブラフマ(brahma)と書かれていてもブランマ(ハ)(bramha)というように発音するべきです。h の次に m がきた時には必ず逆転するというのがサンスクリット語の規則なのです。

訳注:bramha は mh が複合子音ですので、m を重複させて brammha となり、ブラン(bramm)の後にハ(ha)を鼻音化して(鼻にかけて)発音しますbram の後、mhaをマのマハープラーナのように発音するとも言えます。h と m だけでなく、h と n や、 h と ṇ が続いている時も同様です。

brahmabramhabrammha ブランマ(ハ)

vahnivanhivannhi ヴァンニ(ヒ)

ahnā̎manhā̎m annhā̎m アンナ(ハ)ーーン


※文章中の綴りは語源を表すものであるため、変えることはできません。たとえば、「日」という意味の ahan という単語は、「日々の」という意味では ahnām と綴り(発音は annhām)、「日に」という意味では ahani と綴ります(発音は ahani)。


Q2:基本的にどのような順番でマントラを学習したらよいのでしょうか?

簡単なマントラから始めて、だんだん自信がつくにつれて難しいものにしたらよいと思います。特に、同じような言葉が繰り返されるようなマントラが覚えやすいと思います。たとえばシヴォーパーサナ マントラというものがあります。「シヴァーヤ ナマハ、シヴァリンガーヤ ナマハ・・・」というふうに同じ言葉を繰り返すものです。これはマンディールでよく聞くマントラですが、同じ行が繰り返されるようなマントラが最初は覚えやすいかと思います。

それから、メーダー スークタムのような短いマントラをいくつも覚えていくと、心理的にもだんだんと自分は覚えているという感覚が出てくるので自信がついてくると思います。ルッドラムを学びたいという人もいますが、これは一番難しいマントラの一つなのです。ナモー ヒランニャヴァーハヴェー セーナーンニェー・・・。このように、難しい発音を一区切り一区切り学んで、最終的につなげて学ぶというように、学習に非常に長い時間がかかるものだと、途中で自信や興味が無くなったりするかもしれません。ですから、覚えやすいところからだんだんと自信をつけていって、次第に難しいものを覚えていくのがよいでしょう。

Q3:スワミが教えるガーヤトリー マントラの唱え方と、ヴェーダにおけるガヤトリー マントラの唱え方とが違うことについて、ご説明ください

同じヴェーダの中でも、クリシュナ ヤジュル ヴェーダとリグ ヴェーダの中では、同じマントラが違う唱え方がされていることがあります。たとえば、リグ ヴェーダとサーマ ヴェーダとヤジュル ヴェーダの中にガーヤトリー マントラがあります。その3つそれぞれで、このマントラの唱え方がまったく違います。しかし、ガーヤトリー マントラの唱え方は、神ご自身が教えてくださったわけですから、それが一番正しい道と思って、そのように唱えるのが一番よいと思います。

Q4:スワミは、ガーヤトリー マントラを、オームの後で一度区切ってから、その後を続けるという風に唱えていらっしゃることについて、解説をお願いします

スワミがガーヤトリー マントラを私たちに教えてくださったときに、5カ所でマントラを止めるべきであると教えてくださいました。ガヤトリー女神の像を見れば分かると思いますが、ガヤトリー女神には5つのお顔があります。ですから、そのお顔一つひとつに集中するように5カ所で切って、5つの部分に分けて唱えるのが正式だということです。

(1) オーム

(2) ブール ブヴァッ スヴァハ

(3) タッ(ト) サヴィトゥル ヴァレーンニャム

(4) バルゴー デーヴァッスヤ ディーマヒ

(5) ディーヨー ヨー ナッ プラチョーダヤー(ト)

今のように5カ所で切るのが正式なので、そのようにしなければなりません。

 Q:「それを速く唱えるときはどうですか?」

速く唱えるときでも、ほんの一瞬でもいいから必ず止めるようにすべきです。

Q5:私たちがヴェーダのマントラを学習するときには、同時にその意味を学習するべきなのでしょうか? それとも、最初に音だけを学んでから、その後で意味を学習するべきでしょうか?

1970年代に私たちがスワミにヴェーダを学びなさいと言われたとき、私たちはこれとまったく同じ質問をスワミにしました。意味が全然わかりません、どうしたらよいのでしょうと。そのときスワミは、最初に音をできるだけ学習していけば、意味が自然にわかってくるとおっしゃいました。そうでなければ、音と意味を知ることに意識が分裂していますので、音に集中できなくなってしまうということです。ですから、最初は音を正確に学習して、そのうちだんだんと意味を理解していくようにしてください。

Q6:サンスクリット語を勉強するためにお勧めの文献はありますか?

参考書としては18課から成る『サンスクリット語独習』という小さな本があります。また、もう一つは『サンスクリット語の個人教授』というCDで、バンガロールで入手できると思います。これについては、先ほどお話していましたが、コンピュータで一つひとつの文字に触れると、その発音を聞くことができたり、言葉を組み合わせたときの発音が聞けたりするもので、その他にもいろいろ素晴らしいことができるものです。ですから、それはとてもよい学習法となるでしょう。

Q7:ヴェーダを勉強する時に、マントラの言葉を一語一語理解しながら唱えたいと思うのですが、お勧めの参考書はありますか?

ヴェーダやウパニシャッドに関しては、優れた文献がたくさん出版されています。しかし、マントラの意味を単語ごとに一語一語理解しようとしても、まったく意味が分からないというのが実情です。今残っていて、私たちが学んでいるものは古典サンスクリット語と呼ばれる言葉です。ところが、ヴェーダが書かれたころには、ヴェーディック サンスクリット(ヴェーダ語)という分類のサンスクリット語があったわけです。今残っているのは古典サンスクリット語ですから、それより古い時代に書かれたものを理解しようとしても理解できません。どちらもサンスクリット語であることには変わりありません。

まず、パーニニという偉大な文法学者が、サンスクリットの言葉がどのような文脈で使われているかを理解できるように、さまざまなヴェーダの文法規則を体系化しました。もう一つの要素として、このようなヴェーダのマントラは、そのころの聖者たちが瞑想中の意識状態で、現実にサンスクリット語を捉えて、そしてそれを伝えたわけです。

たとえば、皆さん方が、砂糖とはどういうものかを知らず、砂糖を味わったことがなかったとします。砂糖を知っている人は、砂糖は白い色をしているとか、それは結晶の形をしている、水に入れると溶けるなどと、いろんな説明をすることができます。ところが砂糖を一度も味わったことがなく、甘さというものを味わったことがない人に対して、どれほどこっちが、「甘いですよ、本当に甘いですよ」と言って様々に説明しても、聞いた人はそれを全然想像もできないのです。そういう体験というのは、いくら説明しても言葉では伝えられない部分があります、それは、一人ひとりが自分で体験しなくてはなりません。

それと同じことがヴェーダの学習でも起きています。聖者たちがどのような全体的な見通しの中から、それらの言葉を使ったのかということを、私たちは理解できません。そして、これはスワミがおっしゃることですが、その音とか意味を瞑想していくにつれて、ひらめきがあったりして意味がだんだんとわかるようになるわけです。

その一つの例をご紹介しましょう。最近のことですが、アメリカのサンホセというところから来ているグループが今ここに来ていることを、皆さんご存知だと思います。

スワミがグループの一人のメンバーの夢に現れて、マントラ プシパムのマントラの意味を全部お伝えになったそうです。つまり、マントラの一つひとつの詩節が、それぞれの宗教を象徴していて、マントラ プシパム全体が、すべての宗教は一つであることを解き明かしているということです。

たとえば、このマントラは、アグニルヴァー アパーマーヤタナムという言葉から始まりますが、アグニ(火)はゾロアスター教を象徴しているとか、太陽はキリスト教を表しているとか、最後のサンヴァッツァラは「年」なんですが、一年というのは時間の輪で、この時間の輪は仏教を表している、そういうことをスワミが一つひとつ説明してくださったそうです。これを要約して印刷物にしたものを私は持っていますが、それは驚くべきもので、非常に論理的な説明が行われています。ですから、このように、私たちがマントラの意味を考えていると、スワミが一つひとつのマントラの意味を明らかにしてくださるわけです。それぞれの詩節に、水の源を知るものは、まことに、それそのものになるという表現がありますが、水とは何かといえば、それは、すべての宗教の底辺に流れている愛を象徴しているのです。

※詳しくはマントラ プシパムの内的意義をご参照ください。

日本から来られた兄弟姉妹の皆さん、私は、皆さん方が一人ひとりの努力の結果を実際に聞かせてくださったことで、多くのインドの兄弟姉妹やその他の国々の多くの兄弟姉妹たちに、ヴェーダを学習したいという気持ちを駆り立てる、素晴らしい刺激を与えてくださったことをほんとうに嬉しく思います。

皆さん一人ひとりに、末永くスワミの恩寵がありますようにと、私は心からスワミにお祈りします。それによって、皆さんがますますヴェーダを学ぶことができますように、そして、スワミのメッセージ、ヴェーダのメッセージを皆さん一人ひとりが生活の中において他の方がたに伝えていかれますようにと、心からお祈りしています。

最後に一つだけ明確にしておきたいポイントがあります。テキストなどを見ると、そこにイントネーション記号がありますが、それが実際に先生方が唱えているのとちょっと違っている部分があるかと思います。去年のダシャラー祭の折に、ヴェーダの司祭が来た時に、私たちも同じ問題に直面しました。そして、ここは上がりますかとか、下がりますかというようなことを、ヴェーダの学者たちに尋ねました。

彼らは、自分たちは教えられたことを耳で聞いたとおりに再現しているだけなので、テキストが正しいかどうかは自分たちには分からないと答えました。本の中のさまざまな記号は、最近になってできたものでしかないのです。ヴェーダを唱えているお坊さんたちは、全然本などを見ないで、聞いたことをそのまま自分で唱えるというそういう学習をしてきました。ですから、本を作る人は、これが正しいイントネーションだと考えて本を書くかもしれませんが、しかし、実際に唱えている以外の人は、これが正確な唱え方だというようなことは言えないのです。せいぜい、これが一番正確なものに近いだろう、としか言えません。たとえば、同じマントラ、マントラ プシパムでも、違う場所で唱えられる場合に、上がり下がりが異なっている状況があります。ですから、テキストに頼るよりも、できるだけ実際にどのように唱えられているかということをよく吸収して、その通りに唱えるようにしてください。 

以下はキャンプ中の別の折になされた、日本のヴェーダ担当者からの質問に対するヴェーダナーラーヤナン先生のお答えです。

Q8:サンスクリット語の発音はどのように練習するとよいでしょうか?

先にお話したように(このページ上部の先生のお話を参照)、口や喉のどの部分から音が発せられるのかを学習することです。

歩くことを学び始めている子供にとっては、一歩一歩、歩くことさえ気をつけなくてはならないので、何かにつかまらなくてはなりません。いったん歩き始めるようになれば、走り始めるのもすぐです。

私たちインド人にとって、ヴェーダを唱えることは自然と学ぶことができますが、日本人の皆さんにとっては、一音ずつのサンスクリットの音を意識的に学んで行かなくてはならないでしょう。それは一歩一歩段階を踏んで学んでいるくことに相当します。時間が経つにつれて、自然に発音することができるようになるでしょう。

Q9:ヴェーダを学ぶ時には、デーヴァナーガリー文字(インドで広く使われているサンスクリット語を表記する文字)を学んだほうがよいでしょうか?

それは必須ではありません。ヴェーダを学習することと、デーヴァナーガリー文字を学習することは2つのまったく異なった事柄です。デーヴァナーガリー文字を学習しなくても、耳で聞いてヴェーダを学習できれば充分です。デーヴァナーガリー文字を習得した後に初めて、ヴェーダを学習するべきだということはありません。

ヴェーダを「読みたい」のであれば、デーヴァナーガリー文字を学ぶ必要があるでしょう(訳注:インドのヴェーダの解説書の多くは、ヴェーダをデーヴァナーガリー文字で表記しています)。しかしヴェーダを吟唱したいのであれば、デーヴァナーガリー文字を学ぶことは必須ではありません。

例えば私も、日本語の文字を学んでいなくても、今日本人の皆さんの日本語を聞くことで、一言二言の日本語を発音することはできると思います。

Q10:現在日本では、カタカナとアルファベット表記のテキストを見ながらヴェーダを学んでいます。しかし、デーヴァナーガリー以外の文字では記号が多く付き、混乱の原因になったり、正確な表記でなかったりします(カタカナをそのまま読んだような発音になってしまったりする)。どのように学べばよいでしょうか?

デーヴァナーガリー文字からでも、日本語の文字からでもなく、ヴェーダを「聞いて」学習することをお勧めします。聞いて学ぶこと以上によい方法はありません。それが完璧な方法だと思います。デーヴァナーガリー文字を学び始めたとしても、抑揚を間違える可能性はあります。どの文字にも頼らず、グルや教師の口で唱えられるものを、皆さんが何度も何度も復唱することが正しい方法です。

Q11:日本では、ヴェーダの一語一語の意味を学びたいという意見があり、少しずつ辞書で調べ、まとめていました。(手渡して)アドバイスをいただけますでしょうか?

これにはひとつ問題があります。ここ(プラシャーンティ ニラヤム)でも、ブック トラストがマルチメディアCDを発売しましたが、ヴェーダの一語ずつの意味を入れたいと考えていました。しかし、一語一語に分けたそれぞれの語句には、ひとつだけではなく多数にわたる意味が存在します。単一の言葉だけをとって解釈するのではなく、他の言葉と合わせることによって初めて文脈上の意味が成り立ちます。ですから、ヴェーダの一語一語の意味を解釈することは、大変困難です。

例えば、あなたはここに「ブナクトゥ」の意味を記しましたね。食べる、楽しむ、統治する、苦しむ、(時間が)過ぎ行く。あなたはこれらの中からどの意味を選びますか? 共に楽しむのか、共に苦しむのか、それとも共に統治するのか。

「ひとつは『楽しむ』と記され、もうひとつは『苦しむ』と記されている。しかしヴェーダはどちらも意味することができるのか? それとも広い意味ではここに記されているすべてを意味することができるのか?」(と人は考えるでしょう)。

このように一語一語の意味を記すことは、ヴェーダを学習する過程で、誤解を生み出す可能性があります。

もうひとつの問題があります。賢者達は(内なる目によって)(ヴェーダが示している)現実(真理)を見たのです。そしてそれを言葉で表そうとしました。ですから私たちの理解と彼らの理解は異なるでしょう。これらはすべて体験です。私たちがそのレベルまで向上しない限りは、これらは私たちにとってただの言葉にすぎないのです。

一般の人がこれを見ると、この2つ(「楽しむ」と「苦しむ」)は完全に相反する意味にとれます。「共に楽しみましょう」なのか「共に苦しみましょう」なのか。一語一語の意味をとっていくと、このような問題に直面します。例えば、「ヴィールヤム」の意味はここに、精力、力強さ、エネルギー、力、(薬の)効能、精液とあります。これらはまるで異なった意味です。中にはここにまったく記さない方がいいものもあります。

これがサンスクリットなのです。文脈から意味を読みとることをしなければ、誤解を生む可能性があります。

Q12:日本では、最も難しいヴェーダのひとつであるルッドラムにとても興味があり、学びたいと考えている方がいます。アドバイスをいただけますでしょうか?

ルッドラムは、クリシュナ ヤジュル ヴェーダの中でも最も難しいとされているものです。また同時に一番高い位置を占めているものです。日本の皆さんは、これを唱えるには大変時間が必要だと思います。多くの舌のもつれるような語句がありますから。(マハープラーナの)「バ」、「パ」のような(日本語にはない)微妙な発音の違いがたくさんあります。もちろん(もし皆さんが熱意を持っているのならば)、時間はかかりますが、ゆっくりと一行ずつ始めていくことはできます。

Q13:サハナーヴァヴァトゥから始まるマントラはナーラーヤナ ウパニシャッドのシャーンティ マントラ(特定のマントラの前後に唱えられる短いマントラ)としてだけでなく、ほかのマントラのシャーンティ マントラとしても唱えられています。シャーンティ マントラの内的意義とは何でしょうか?

シャーンティ マントラは、マントラを平安のうちに始め、平安のうちに終えるためのものです。吟唱を始めるとき、様々な力によって吟唱が妨害されることのないようにしなくてはなりません。妨害しうる力は3種類あります。それらはアーディバゥティカ(ādhibhautika;物質的なもの)、アーディダィヴィカ(ādhidaivika;神々や運命に関係したもの)、アーディヤートミカ(ādhyātmika;霊的なもの)です。蚊、病気、自然災害等々、吟唱を妨げるものは様々です。

ですから、吟唱を始める前に外的な影響が一切ないようにと、このマントラを唱えるのです。よい仕事をしようとするとき、ネガティブな力がそれを邪魔しようと働くので、それらから守られるように、ある特定のシャーンティマントラを唱えるのです。そして(メインの)マントラを唱え終えた後、私たちの唱えたものが人類と社会の平和のためのエネルギーに変換されるようにと、もう一度シャーンティ マントラを唱えます。この目的のために、私たちはマントラをふたつのシャーンティ マントラではさむのです。すべてのマントラをこのようにするわけではなく、主にウパニシャッドにおいてこのような形式をとります。すべてのウパニシャッドはふたつのシャーンティ マントラではさまれています。いくつかのスークタムもこのような形式をとっています。すべてのマントラにシャーンティ マントラがつくわけではありません。例えばルッドラムには、シャーンティ マントラはありません。

Q14:ガナムとはどのような唱え方でしょうか?

ガナムは、ヴェーダを学習する方法のひとつで、特定の唱え方をするものです。唱え方には5種類のものがあります。通常のパーラーヤナム(詠唱)は、サンヒターパータの形式で行います。このように、サンヒターパータ(saṃhitāpāṭha)、パダパータ(padapāṭha)、クラマパータ(kramapāṭha)、ジャターパータ(jaṭāpāṭha) など様々な形式がありますが、ガナパータ(ghanapāṭha)は、その中でも最も難しい形式のものです。

なぜそのような唱え方をするのかといいますと、昔は(ヴェーダが文字で記されている)本などありませんでしたから、生徒はヴェーダのすべてを頭で暗記しなくてはならなかったのです。どのようにして暗記したのでしょう? これが(ヴェーダの)言葉を決して忘れないようにするための方法のひとつでした。

彼らはマントラの最初の3語をとって、すべてのマントラが従わなくてはならない共通の節を方式化しました。しかしイントネーションはそれぞれ異なります。

例えば、(ガナパティ プラールタナーの)「ガナーナーン トワー ガナパティム」の最初の3語をとって、1、2、3と番号をつけます。そして1、2、2、1;1、2、3;3、2、1;1、2、3という順番でそれらを唱えます。ですから基本的に進んだり、戻ったりする唱え方です。

次は、2番目の言葉が1番目の言葉になり、同じ方式がここでも用いられ、1、2、3の3番目の言葉が(マントラの最初から)4番目の言葉になります。こうしてまた同様に、1、2、2、1;1、2、3;3、2、1;1、2、3という方式をとります。その次も、次の言葉にシフトします。

これで何をしているのかといいますと、すべての言葉を総合的に学んでいるのです。同じ言葉を何度何度も繰り返しますから、聞いたすべての言葉を決して忘れることがなくなります。

例えば3分間、何も見ないで吟唱しなくてはならないのであれば、テキストを暗記していなくてはなりません。15分間は暗記で唱えられるでしょう。1時間、4時間も大丈夫かもしれません。しかしヴェーダのすべてを頭で暗記しなくてはならないのであれば、多くの同じような言葉や節があるので、あちらこちらと(違う箇所に)簡単に(誤って)移ってしまう可能性が大いにあります。なぜでしょう?

例えば、プルシャ スークタムひとつをとってみても、「ナーンニャッ パンター アヤナーヤ ヴィッディヤテー」と「ナーンニャッ パンター ヴィッディヤテーヤナーヤ」があり、多くの人が(誤って)こちらからあちら、またはあちらからこちらへと飛んでしまいます。ひとつのマントラだけがこのように難しいのであれば、暗記するのは大丈夫かもしれません。しかし、ヴェーダのすべてを覚えなくてはならないのであれば、無理があると思います。

ですから太古の人々は、主に学習をするためにこのガナムという方法を使い、言葉が頭の中に刷り込まれるようにしていたのです。

Q15:日本でヴェーダを学ぶ人々へメッセージをいただけますでしょうか?

śraddhāvāṁ labhate jñānaṁ

シラッダーヴァーン ラバテー ッニャーナム

※バガヴァッド ギーター第4章第39節

これは、シラッダーを持つものは英知を獲得する、という意味です。

※シラッダー:信念、熱意、根気、決意、不動心

皆さんは(ヴェーダに対する)シラッダーを既に持っています。スワミは常に、シラッダーを持つことを強調されています。皆さんにはシラッダーがあり、偉大なる主であるスワミがいらっしゃって皆さんを導いているのですから、必ずゴールにたどり着くことでしょう。