ダルマの復興

バーラタ(インド;神を愛する人々の国の意味)の国は、太古の時代から、真実や正しい行いなどの人間的価値の実践の最前線にいました。「サッティヤム ヴァダ」(真実を語りなさい)と「ダルマム チャラ」(ダルマ〔法;正しい行い〕を行いなさい)というヴェーダの教えが、バーラタの文化に不可欠なものとなっているのは、そのためです。私たちの先祖は、人々が実践し、それによって世界の幸せを促進するために、ヴェーダに基づいていくつかの知識の領域を発展させてきました。厳密にいえば、すべての知識はヴェーダから生まれているのです。そして、それらのヴェーダは神々の言語であるサンスクリット語でできています。ですから、サンスクリット語は多くの言語のひとつなのではなく、まことにヴェーダの声なのです。太古の時代においては、教育の目的は、生計を立てることよりも、知識を獲得することにありました。しかしながら、今や、その状況が変わって、教育の目的は、生計を立てることと考えられるようになっているのは、嘆かわしいことです。私たちの先祖は、ヴェーダを完全にマスターすることができました。ヴェーダのマントラ(真言;それを唱えることにより救いがもたらされる神聖な言葉)を唱えることによって、彼らは天界の神々の怒りを鎮め、彼らの恩寵を得ることができました。その上、彼らは、神々に祈りを捧げて目の前に姿を現してもらい、面と向かって、直接彼と言葉を交わすことができたのです。

ダルマの衰退

ところが、時代が下がるにつれて、バーラタの人々は、ヴェーダと、ヴェーダに基づいた実践をおろそかにし、ヴェーダの教えを軽視したために、秀でた地位を失ってしまいました。その結果、彼らは神の姿を見ることがなくなり、代わりに魔物の姿を見るようになったのです。神の恩寵からこぼれ落ちたために、ヴェーダとシャーストラ(経典)と、ヴェーダのダルマの実践が徐々に衰退して行きました。彼らは腐敗し、不道徳になりました。バーラタの人々は、資格も価値もない教師たちに教わった道徳に反する習慣の餌食になってしまいました。生半可な知識と短い寿命を持った人々が、この罪に満ちた世界に生まれて来ます。自己中心的な思いにひたり、おごり高ぶって、彼らは天界の神々を忘れ、アヴァター(神の化身)にまつわる物語を、単なる夢物語として非難しました。代わりに彼らは、非真実とよこしまな振る舞いと、腐敗と、不道徳を、正しい考えとして褒めそやしています。こうして彼らは、自分たちに降りかかる不幸を、見境なく買い取っているのです。ああ、何と悲しいことでしょう。何という堕落でしょう。彼らの知的な識別力は、どこに行ってしまったのでしょうか?

私たちの先祖の信仰と帰依

古の人々は、神への礼拝を、自分たちを守ってくれる盾とみなしていました。彼らは、自分たちが神を礼拝する過程において、いかなる過ちも入り込まないように、常に深い注意を払っていました。そうした過ちが危険な結果につながることのないようにしたのです。彼らは、礼拝の場として、寺院を建設しました。神への礼拝に対するそのような信仰は、バクティ(神への愛;帰依)と呼ばれました。そして、神に対するその種の帰依献身は、意識の浄化(チッタ シュッディ)のための前提条件と考えられました。彼らが、寺院のない村落では食事や宿泊をしなかったのは、そのような崇高な理想に向かっていたからに他なりません。寺院は、無形にして無属性の神を、姿と属性を持った神と同一のものであることを悟るという、最高の霊性修行をすることが可能な場所であると考えられていました。寺院で唱えられるヴェーダのマントラは、主なる神に対する祈り(聖歌)とみなされました。ガルバラヤム(至聖所)、ドワラム(正面入り口)、ゴープラム(山門)、シカラム(寺院の屋根の頂上)、ドワージャシュタムバム(旗棹)、マンタパム(寺院の儀式が執り行われるホール)―これらはすべてヴァストゥ シャーストラ(寺院建築に関する科学)に基づいて建設されており、相互に関連し合っています。五大元素の中核は、アンダーンダ(全宇宙)を構成しており、粗大な側面がブラーマンダ(大宇宙)を、微細な側面がピンダンダ(小宇宙)を構成しています。これがデーハラーヤ(身体の寺院)の特質です。この原理に基づき、寺院の建設(デーヴァラーヤ ダルマ)の様々な側面が、ヴァーストゥ(寺院建築学)に準じて開発されました。皆さんは、観察によって、すべてのヒンドゥー寺院の至聖所の前には鐘が吊られていることを知っているかもしれません。寺院の鐘は原初の音であるオームカーラ、すなわちプラナヴァ ナーダの力を象徴しています。

道徳科学

もっと簡単に言えば、音楽のコンサートでタンプーラ(弦楽器)がシュルティ(音の高さを示すもの)の役割を果たすのと同様に、寺院の鐘の音は寺院の中で唱えられるヴェーダ マントラのシュルティとして働いているのです。寺院の中で唱えられるすべてのマントラは、寺院の鐘の音と調和しています。というより、そうでなければならないのです。プラナヴァ(オームカーラ)の音は、ヴェーダ吟唱にとってのシュルティです。ナマカとチャマカのマントラ、もしくはヴェーダの聖歌が寺院の鐘の音と調和して唱えられるときにのみ、マントラによってなだめられる神々は、適切な恵みを授けるのです。寺院の儀式の最中に守られているこうした太古の伝統や習慣の真義を理解することができずに、一部の人々は、お金のため、または安っぽい人気を勝ち得るために、それを批判します。その結果、彼らは自分自身を駄目にするばかりでなく、他の人々にも害を与えています。ヴェーダの聖歌に対する人々の信仰が衰退したのは、そのような人々によって行われる無知な批判ゆえにほかなりません。これは一つの側面です。もう一つの、さらに重要な側面は、ヴェーダの聖歌やマントラを唱える人々は、それを正しく唱えることができるだけでなく、マントラと音声の意味や重要性を知って、それを説明できるようでなければならないということです。ですから、私たちの国の人々に、道徳の科学を教えることが必要です。神への帰依、真理、正しい行い、善い振る舞い等々に関する原理を、小さいときから教えなければなりません。

神の法則

太古の時代において、グルクラ(聖者の隠遁所)における知識の探求は、食物やレクリエーションに関する正しい規律の伴った、体系的なものでありました。寺院のような礼拝の場所や、寺院の儀式などに対する人々の信仰が損なわれない限り、世界は平和で安全なのです。世の中は幸福と繁栄に満ちて発展するでしょう。寺院とそこに祀(まつ)られている神々との関係や、人間と神々との関係を十分に説明することは不可能です。どれほど言葉を使って説明しても足りません。その関係は、話し言葉や書き言葉による表現をはるかに超えています。このような素晴らしい関係が、今や政府の管理下に置かれています。完全に精神的な側面である「神への信仰と帰依」が、政府の「基本財産」部門の管轄となっています。土地その他の財産のような、寺院に属する物理的側面を管理することはできるかもしれませんが、神は、熱烈な愛を込めて祈る帰依者たちによってコントロールされています。政府は、寺院にまつわる事柄のあり方について、いくつもの法律を制定し、また必要に応じて、その改定を行うかもしれませんが、神の法則は変わることがありません。もし人間が、そのような不変の神の法則を守ることができれば、人々は時代の浮き沈みによって波立つことのない、神聖な人生を送ることができます。ヴェーダは、そうした聖なる人生を送る方法を教えています。バクティ ヨーガとグニャーナ ヨーガは、世界の現代の状況に最も適した、ヴェーダの知識の部門です。

バクティ(信愛)は神に対する至高の愛であり、流れる油のように、決して途切れることのないものです。それは、帰依者と神の間の神聖な絆です。グニャーナ(英知)とは、感覚の次元を超えたこの上ない至福をもたらすもののことです。ヨーガは感覚から心を引き戻し、チッタ(個人の意識)を普遍的意識の中に融合させることです。これらすべてにとって、「勤勉に決まりを遵守すること」(アヌシュターナ)が必要です。このアヌシュターナは、パラマールティカ チンタ(超越的原理を悟るための強烈な三重の切望)とも呼ばれています。バーラタは、このような神への強烈な愛(バーガヴァット ラティ)のある国です。このように神聖な国であるバーラタにおいては、ダルマの遵守こそが、人々の活動の中核になっています。彼らのハートは神のビジョンで満たされています。彼らが払う犠牲はすべて神に到達するためのものです。バーラタの人々に見られる神への探求における冒険の精神は、西洋人に見られる物質的なものの探求における冒険的な姿勢よりも、はるかに優れています。西洋人が、物質的な成果を得るために命を捧げるのであれば、バーラタの人々は、神のビジョンを得るためには自分の命を犠牲にする用意があるのです。

ダルマ(法;正しい行い)とカルマ(行動)の国

ダルマとカルマの国であるバーラタは、世界の心臓と呼ばれるのにふさわしい国です。バーラタの人々は、常に根本原理の探索の最前線に立ってきました。酸素がすべての人間の大切な息吹であるように、すべての生き物にとって、パラマートマ(至高の大霊)を絶えず黙想することが必要なのです。肉体にとって、目が非常に重要であるように、バーラタの存続にとってはヴェーダの科学が欠かせません。ヴェーダのない国は、目のない人体と同じです。バーラタの人々の人生と哲学を支配している根本原理は、ヴェーダの権威に基づいています。バーラタの人々が信仰しているヴェーダから生まれた宗教は、世界中の宗教の中で最も古いものです。それは、他のイデオロギーから来る外部の影響というウィルスから隔離され、完全に保護されています。ダルマを守り、カルマを実行しながら、ヴェーダの教えから外れたり、他のイデオロギーの基準を受け入れたりしたことは、一度もありませんでした。バーラタに普及している、さまざまに異なる礼拝の形式の中においても、いや、施しを受けて暮らす人々の歌う民謡の中にすら、ヴェーダの哲学の底流があります。宗教の経典はヴェーダに基盤を置いていますが、ヴェーダの宗教の根底にある哲学は、ヴェーダーンタ、すなわちウパニシャッド(奥義書)の中に含まれています。この種のシステムは、バーラタ(インドの正式名称)以外のいかなる国にも普及していません。時代が変わり、大陸そのものがさまざまな変化を経たときも、ヴェーダの言語はバーラタで栄え続けました。バーラタの国は、人類全体にとって母親のような存在です。イティハーサ(伝承)や、プラーナ(叙事詩)、ウパニシャッド(奥義書)、スムリティ(古伝書)は、母なるヴェーダの、手足のようなものです。もし、それらの偉大なヴェーダの経典の真髄が、権威がないと見なされるようであれば、人間の活動自体が停滞し、国家の存在自体が危機にさらされてしまいます。

霊視する人と解説する人とは一つ

誰であれ、ヴェーダを霊視しヴェーダを解説する人、その人のみが、イティハーサ(伝承)、プラーナ(叙事詩)、ウパニシャッド(奥義書)、シュルティ(経典)、スムリティ(古伝書)の解説者でもあります。ヴェーダの内容はヤグニャ(供犠)です。イティハーサとプラーナは世界について語ります。ダルマ シャーストラ(法典)は、世俗の事柄に関する振る舞いの原則や決まりごとを定めています。これらのものは、それぞれが、それ自体で権威になっています。一つの教本に定められた基準が、他の教本には当てはまりません。身体の異なった部位が異なった機能を果たすのと同じように、イティハーサ、プラーナ、ウパニシャッド、ダルマ シャーストラは、いずれもヴェーダという同じ一つの知識の身体の部位であるのに、それぞれが異なった権威を持っています。こうした理由のために、それぞれのシャーストラ(経典)は、それ自体が一つの権威となっているのです。

創造主のみが宇宙の法則を定める

シャーストラは、どのような行為を行うべきで、どのような行為を行ってはならないか、何が善であり、何が悪であるのか、罪とは何か、また美徳とは何か、何が幸せで、何が悲しみか、等々を人間に教える教本です。これは、この世での日常生活の中の出来事に関する行為についての教えです。これらの規則は、それに関する賛否両論が戦わされ始める前から、浸透していたのです。これらの規則は、空虚な議論の範疇を超えています。非論理的で、非科学的な論争は、罪に満ちた時代においてしか栄えません。たとえば、蛍の光が放つ輝きは、暗闇の中でしか見えません。一方、日光や月の光のもとでは、彼らの存在自体が、知られることもありません。同様に、ヴェーダやシャーストラの伝播(でんぱ)が衰退して、罪深い行為が勢いを得ているときは、非論理的な論議が盛んになります。創造主であって、かつ、維持者でも、破壊者でもある神のみが、ヴェーダやシャーストラの基盤なのです。シャーストラは、宇宙の最高指揮官による祝福の言葉です。これは、世俗の規則においても同様です。何かの記事を書く人がいるとすれば、その人だけが、その記事の使い道に関する条件を規定することができます。例えばある人が、果物のなる木がたくさん茂っている庭園を育てているとします。その人だけが、植物に栄養を与えて育て、それらを保護する権利を持っているのは、事実ではないでしょうか? 同様に、宇宙の創造主であり維持者でもある存在が、宇宙が円滑に機能するための規則を定める権利を持っています。それに関しては、疑いの余地はありません。それに関して神が定める法(シャーサナ)さえも、本質的に祝福に満ちたものであって、懲罰的なものではありません。創造主の法に従う人々はすべて、神の実の子どもたちです。つまり、ヴェーダやシャーストラの教えに従ってそれに基づいて自分たちの生活を律する人々を、神は最も大切にするのです。バーラタは、そうした神の実子たちの住処です。

プルシャールタ(人生の目標)

バーラタの人々は、この世のものでないモークシャ(解脱)という目標のほかに、世俗的な目標もいくつか定めています。それは、ダルマ(法;正しい行い)と、アルタ(富の追求)と、カーマ(願望成就)です。ダルマを守ることにより、人は霊的な喜びを得ることができます。アルタ(富)は俗世における幸せと安らぎをもたらします。同様に、カーマ(願望成就)は、子孫をもたらします。

人は、3つのプルシャールタを達成することによって初めて、この世において有意義で幸せな生活を送ることができます。このように、いかなるものであれ、神によって定められた法は、人々に恩恵をもたらすことのみを意図したものなのです。パラマートマ(絶対実在;神我)がブランマー神(創造神)を創り、ブランマー神にヴェーダを授けました。ブランマー神は、ヴェーダに基づいてシャーストラ(経典)を布告しましたが、シャーストラは、人々に幸せで有意義な生活をもたらすダルマ、アルタ、カーマに関する三種類の霊性修行を定めています。そして、以下のシャーストラが世界に開示されました。すなわち、マヌによる『ダルマ シャーストラ』(法典)、ブリハスパティによる『アルタ シャーストラ』(実利論)、それに、ナンディーシュワラとナチケータによる『カーマ シャーストラ』(性愛論)です。


出典:『サイ ラム ニュース』No.133, pp.21~23; 『サイ ラム ニュース』No.134, pp.22~25.原典:Sri Sathya Sai Veda Vani, (最初の御講話の途中まで).