オームカーラの比類なき重要性
日付:1984年10月1日
場所:プラシャーンティ ニラヤムのプールナチャンドラ講堂
聖音オームに関するババの御講話より
マントラは単なる言葉の寄せ集めではありません。マントラは多大な意味を含んだ一連の言葉です。マントラは人間の内なる力から生じます。力に満ちたマントラは、正確に発音されると、人間の内にある神聖な力を呼び起こします。マントラを唱えることで作り出されるバイブレーションは、宇宙のナーダ(原初の音)と結合して、普遍意識と一つになります。この宇宙のバイブレーションこそが、ヴェーダという姿をまとったのです。
すべてのマントラにとっての根源的なマントラであり、属性を持たぬもの、すなわち遍在なる至高我を内に秘めているものが、オームカーラ〔聖音オーム〕です。オームカーラはその音の姿の中に至高なるブラフマンを包含しているのです。この音を司(つかさど)る神はサラスワティー〔弁才天〕です。一般に、サラスワティーはブラフマー〔創造神〕の妃(きさき)であると考えられています。ブラフマーとサラスワティーが一体となったものが、この世の知識の一切の源です。ブラフマーとはいったい何者で、サラスワティーとはいったい何者なのでしょうか? サラスワティーは、一般に、話し言葉の女神として、また、知識を手に入れたいときに機嫌をとるべき女神として、礼拝されます。さらに、サラスワティーは、ヴァラデー(願いを叶える者)やカーマルーピニー(どんな姿でもとれる者)とも呼ばれています。けれども、サラスワティーはこれらの描写に合致する者ではありません。サラスワティーは話し言葉の女神として生あるものすべてに内在しているのです。
オームカーラはブラフマンが音となって顕現したもの
体はブラフマーであり、舌はサラスワティーであり、ハートから発せられるバイブレーションは体と舌が一つになって生み出されるものである、と考えれられています。文字と言葉はたくさんありますが、その首位の座を占め、それらの土台となっているアクシャラム〔音、文字、語〕は、オームカーラです。『バガヴァッドギーター』は、
オーミッティエーカークシャラム ブランマー
〔オームの一音はブラフマンそのもの〕
〔バガヴァッド ギーター8章13節より〕
と述べています。オーム以外の文字と言葉は、すべて言語の創造物であり、「オーム」の比類なき神聖さや、神の特質は有していません。「オーム」の特別な重要性は、概して、認識も理解もされていません。
マントラ シャーストラ(マントラに関する古代の聖典)は、「オーム」の文字を重要視しています。オームカーラに形はありません。オームカーラはブラフマンが音となって顕現したものです。オームカーラは一切の創造物に内在しています。オームカーラは光り輝いています。オームカーラは話し言葉の一切に内在しています。オームカーラはつねに至福に満ちています。オームカーラはパラーットパラマイー(至高者の具現)です。オームカーラはマーヤーマイー(幻力の貯蔵庫)です。オームカーラはシュリーマイー(富の具現)です。マントラ シャーストラには、オームカーラはこれら神の八つの属性〔シャブダ ブランマーマイー(音の具現)、チャラーチャラマイー(動くものと動かないもの具現)、ジョーティルマイー(光の具現)、ヴァーングマイー(言葉の具現)、ニッティヤーナンダマイー(永遠の至福の具現)、パラーットパラマイー(至高の栄光の具現)、マーヤーマイー(迷妄の具現)、シュリーマイー(富の具現)〕を有している唯一の音である、とあります。
オームカーラと他の一切の音との違いは何でしょうか? オームカーラには、その発音のされ方と、それが表している目的において、比類のない特有の性質があります。他の文字を発音するときには、唇と舌と頬(ほお)と顎(あご)が動きます。けれども、オームカーラを発音するときには、そのどれも、まったく動きません。これはオームカーラの類(たぐい)希(まれ)な特徴です。それゆえ、オームだけは「不滅なるもの(アクシャラム)」と見なされ得るのです。他の音はすべて、さまざまな言語表現です。
オームカーラはヴェーダの土台です。オームカーラという遍満なるものの重要性を完全に把握するには、人にも同種の自制が要され、それには感覚器官を支配下に置くための訓練をしなければなりません。
どのマントラを唱えるにしても、首位はオームにあるということを頭に入れておくべきです。ナマハで終わるマントラ(たとえば「オーム ケーシャヴァーヤ ナマハ」――ケーシャヴァ〔クリシュナ神〕に帰命し奉る)があります。「オーム ケーシャヴァーヤ ナマハ」、「オーム ゴーヴィンダーヤ ナマハ」、「オーム ナーラーヤナーヤ ナマハ」といったマントラでは、各マントラの最後にある「ナマハ」の意義に注意すべきです。
「ナマハ」という言葉によって意味づけられる礼拝の姿勢は、もし、各マントラの頭に「オーム」という語が使われなければ、失われてしまいます。最初に「オーム」、そして、最後に「ナマハ」が唱えられて、初めてそのマントラの意図するものが完全に引き出されるのです。「オーム」と「ナマハ」の欠かすことのできない関係を理解すべきです。「ナマハ」はプラクリティ〔物質界、現象界、自然界〕を象徴しています。通常、「ナマハ」はナマスカーラム(お辞儀〔平伏〕)を意味していると理解されています。しかし、「ナマハ」にはもっと広い意味があります。「ナマハ」はプラクリティを意味します。「オーム」はプルシャ(神性)を内包しています。このマントラの目的はプラクリティとプルシャの関係を明らかにすることにあります。この内的意義を基にして、大格言(マハーヴァーキャ)、「タット トワム アスィ」(汝はそれなり〔タットワマスィ〕)を理解しなければなりません。「アスィ」は「タット」〔あれ〕と「トワム」〔汝〕を結ぶものです。「アハム ブランマー アスミ」〔我はブラフマンなり、アハム ブランマースミ〕においては、「アスミ」が連結をもたらしています。「プラグニャーナム ブランマー」〔絶えず神と融合している意識状態はブラフマーなり〕という大格言(マハーヴァーキャ)においては、「アスィ」は加わっていません。
エゴを取り除くことによってのみブラフマンを悟ることができる
もし「オーム ケーシャヴァーヤ ナマハ」というマントラの「ケーシャヴァ」を省いて、「オーム ナマハ」と唱えると、シヴァとシャクティ(プルシャとプラクリティ)の一体性が確立され、このマントラの中に存在する二元性が取り除かれます。このマントラは、「私はケーシャヴァに平伏を捧げます」と言明し、そうすることによって二つの存在を据え、それに加えて、平伏するという行為自体が第三の構成要素となっています。
この二元性を除去するのに、マントラ シャーストラは、もし「ナマハ」の代わりに「ナ ママ」(私のためではなく)を用いるなら、礼拝する者と礼拝される者の同一性が確立される、と定めています。「オーム ケーシャヴァーヤ ナ ママ」は、「私のためでなく、ケーシャヴァのために」という意味になります。このプロセスによって、エゴ〔アハンカーラ、自我〕は破壊されます。そして、エゴを取り除くことによってのみ、属性のないブラフマンを悟ることができるのです。
出典:http://www.sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19841001.html原典:Sathya Sai Speaks, Vol.17, Ch.25.