恩寵の祝祭

日付:1970年11月

ヤグニャに関する御講話より

人間の最古の聖典であるヴェーダは、人は神から授かった特別な贈り物(すなわち、未来を検証して分析して長期的にはどうすることが有益かを決定できる知性、および、一時的な満足を放棄して避け、そうすることによって永遠の至福という乱されることのない永続する満足感を追求することができる能力)を役立てなければならないと定めています。これが、この7日供犠(ヤグニャ サプターハ)が「ヴェーダプルシャ サプターハ ヤグニャ〔ヴェーダプルシャへの7日供犠〕」と呼ばれる所以(ゆえん)です。

ヴェーダプルシャは、ヴェーダの神々への礼拝、とりわけ太陽神と火の神を、ナマスカールの祭礼(太陽神に向けたもの)と、儀式で清めたギーの奉納(火の神に向けたもの)を通して礼拝することによって、なだめられなければなりません。ルッドラ神〔ルドラ神〕は、連日、何千ものリンガ〔リンガム〕を礼拝することよって崇められ、母としての神の側面(ナヴァラートリー祭の期間に最も崇められる)は、皆さんも見ているとおり、きっちりと正確に執り行われるプージャー〔供養礼拝〕という方法によって崇められます。ヴェーダは、何百年、何千年も前にサラスワティー河やヤムナー河の土手でアーリヤーヴァルタ〔アーリヤ人の聖なる土地、北インド一帯〕の純朴な聖者たちによって唱えられていたとおりに、各音節が厳格な正しさをもって唱えられます。この方法によって、唱える者、礼拝する者、儀式を執り行う者、参列する者、聴衆、場の神聖さに感動している者は、皆、どこにいても至福と平安に満たされるのです。

ヤグニャは宇宙の秩序を維持する

ヤグニャは犠牲を意味します。マントラはこのことを力説し、供犠はこのことを象徴しています。〔太陽神への〕ナマスカール(平伏)はこのことを強調する身体的行為です。実際、人の生涯というものは、毎日が自分の寿命の一部を太陽に捧げる犠牲であり、一刻一刻自分の時間と力と注意を他の人や物事に捧げる犠牲なのです。ヤグニャ(犠牲)なしに進歩はあり得ません。ヤグニャは宇宙の秩序を維持します。犠牲は神々を喜ばせます。神々は雨を降らせ、雨は作物に養分を与え、作物は収穫をもたらし、収穫は手足を強くし、見る目を大きくします。犠牲は、人間がもはやそれ以上苦闘も死もない目的地に到達するまで、ハートを広げ、視野を浄化します。

最高で、最も実り多い犠牲は、エゴ〔アハンカーラ〕を犠牲にすることです。エゴを磔(はりつけ)にして、自由になりなさい。エゴを神に捧げ、すべての夢を越えて、豊かになりなさい。この至高の境地に向かって、神聖な行為(カルマ)、つまりダルマの坩堝(るつぼ)の中で清めた行為に従事することによって、自らの準備を整え、この多種多様なる大宇宙のすべてとして顕れているブラフマンに到達しなさい。

『マハーバーラタ』も、ヴェーダのゆえに尊敬に値するのです。『マハーバーラタ』は、それを知る人々から第五のヴェーダとして尊ばれています。『マハーバーラタ』には、ダルマラージャ〔ダルマの王〕と呼ばれるパーンダヴァ兄弟の長兄が登場します。しかし、ダルマラージャの成功のすべては、自らの右腕としてビーマ(力の権化)を、左腕としてアルジュナ〔けが穢れなき美徳の象徴〕を有していたという事実のおかげです。感覚器官を支配することで生じる力、および、衝動と情動と激情を征服することによって勝ち取った堅忍や平静は、共にダルマにとってブラフマンのとりで砦を登るための貴重な援軍なのです。

生活を捧げる道における五段階

個人がヤグニャの精神を培うことができるよう、ヴェーダは5つの段階を定めています。それは、

  1. 「デーヴァ ヤグニャ」〔神への供犠〕(家庭の祭壇で神を崇める等)、
  2. 「ピトル ヤグニャ」〔祖先への供犠〕(自分に肉体を授けて命の灯火に油を差してくれた両親への恩義を心に留める等)、
  3. 「マーヌシャ ヤグニャ」〔人類への供犠〕(客をもてなしたり、保護と食物を求めて来た人々に食事を与える等)、
  4. 「ブラフマ ヤグニャ」〔霊的知識への供犠〕(聖典の学習や霊性の道への手ほどき等)、
  5. 「ブータ ヤグニャ」〔生類への供犠〕(人間の協力者であり仲間である愛玩動物、牛、馬、羊、犬に餌を与えて育てる等)です。

ヴェーダは、家長たる者は皆これら五つの儀式を毎日行うよう強く求めています。家長には、これらを行うことによって神への全託という目標に到達するために生活を捧げる道が奨励されています。

牛は、牛乳、バター、カード〔ヨーグルト〕、ギーという、どれも栄養価の高いものを人間に与えてくれます。牛は草だけをは食み、人間には飲めないようなものを飲んで、人間がしてくれた世話と親切への恩返しに、生気を与えて力を維持する食物を人に与えてくれるのです! それに感謝するには、人が牛たちを軽視したり傷つけたりしないことが要されます。同様に、人は、自分が育てている植物や木々が、飢えや渇きに苦しんで干からびて枯れるのを放置すべきではありません。皆さんは人々が蟻塚の入り口に砂糖や小麦粉を置いているのを見たことがあるはずです。この行為は普遍的な慈愛の一光であり、それによって人のハートが特徴づけられなければならないものす。この行為は、与え手に報いることはなくとも、牛の世話と同じく「ブータ ヤグニャ」です。

唯一者は多になることを意志した

神の大霊の化身の、一時的で取るに足りない名と姿など、知らぬふりをしなさい。そうすれば、昆虫と狼の違い、原子と神の化身(アヴァター)の区別は消えうせ、根本的な真理は一つであるという知識が実感されます。ウパニシャッドが述べているように、唯一者が、「エーコーハム バフスヤーム――我は一者なり、我は多になろう」と意志した時、創造、すなわち顕現、あるいは拡大開花の爆発が始まりました。ですから、このすべては唯一者なのです。唯一者は、後ろに来るゼロ〔0〕に価値と正当性をもたらす整数〔1〕(私)です! 「私」というものの機能を悟り、その後に続くすべてのゼロを無視することが、人間の努力の目的であり、目標です。心が平静で、知性が研ぎ澄まされていれば、更なる努力をせずとも、この悟りは開かれます。

セヴァ(無私の奉仕)という霊性修行(サーダナ)を通じて、多として顕れている一者を認識することができます。給料袋を期待して主人に奉仕する人は、セーヴァカ〔無私の奉仕者〕とは呼べません。そういう人は給料袋に仕える人です。その種の奉仕は、人をそれに伴う損得に縛り付け、落胆や高揚をもたらします。奉仕は、至高の義務感、あるいは、至高者への慎ましい奉納、あるいは、結果のことは何も考えずに神の恩寵に委ねるという、神の意志への全託の精神において為されなければなりません。これらの純粋な動機で為されるのであれば、奉仕の行為は、無執着を育てることはあっても、ぞんざいさを助長するようなことはないでしょう。

シヴァ神は、トゥルヤムバカム、すなわち「3つの目を持つ者」として讃えられます。3つの目は、過去と未来も現在と同じように見通す目として付いています。加えて、それは3つの衝動、つまり、欲望と行動と知識という、人を動かして人の運命を決定するものも表しています。この3つの衝動は、生あるものすべてを神聖な絆で結びつけます。愛と敬意を持って生あるものに仕える人々は、この、生あるものの中核に触れることができ、自らを救済します。そして、自分のハートに祀った神の反映と姿を、万物の中に見ることでしょう。

人は自分が生まれてきた目的である務めを忘れている

銀でできたガネーシャの像をクリシュナの像に変えたいと思い立っても、ただガネーシャの像に布をかぶせて、〔手品のように〕数秒後にその布をパッと取るだけでは、成功しようはずがありません! ガネーシャ像を粉々に壊してその銀のかけらを溶かし、その銀をクリシュナの鋳型に注ぎ込まなくてはなりません! それと同じように、もし人間を神に変容させたいと切望するなら、心に詰まっているものを無執着によってバラバラに解体し、その破片を英知(グニャーナ)の火で溶かし、信愛(バクティ)の鋳型に注ぎ込まなければなりません。そうすれば、意識全体が神の御名と御姿と本質を呈します。その時、何を話し、何を行い、何を考えようと、それらは神の輝きと純粋さと帯びます。

私はよく皆さんに、「私の人生が私のメッセージです」と言います。神の化身(アヴァター)たちはそう宣言し、自らの神性をその方法で実証します。神の化身(アヴァター)は、子どもたちの中では子どもであり、男性の中では男性であり、女性の中では女性です。そうすれば、相手の喜びや悲しみに反応して、相手を慰め、相手の意気消沈したハートに自信と勇気を吹き込むことができるからです。神の化身(アヴァター)は人間たちの中にやって来ます。その理由は、鳥や獣や木々などは、不自然な状態や奇妙な状態に陥ることなどないからです。世俗の幸福と感覚の悦楽という、人を惑わすものを追いかけて、自分が地上にやってきた目的である務めを忘れてしまうのは、人間だけです。神は、ダルマを復興させて、人間を徳と英知の道に連れ戻すために人間の姿を取ったのですから、ダルマを厳格に守ることほど神を満足させることはありません。もし自分が見るもの、聞くもの、触れるもの、味わうもの一切の中の神を意識するなら、人はダルマの道から離れることなく進むことができます。それは、人生のあらゆる瞬間を真我顕現の感動で満たしてくれることでしょう。

神はハートの苦悩を聞いている

神を信じなさい。神はすべてを見ています。神はどこにでもいます。神は全能です。〔パーンダヴァ兄弟の〕妃ドラウパディーは、夫たちの邪悪な従兄弟たちによって宮廷の広間に引きずり出され、「辱めを受けさせてやろう、名誉を汚してやろう」と脅されたとき、自分の人間である主人たち、すなわち、ダルマの偉人ダルマラージャ、強力な戦士ビーマ、とびきりの弓の射手アルジュナ、万人の未来を知るサハデーヴァ、勇気の化身ナクラの名前は呼びませんでした。ドラウパディーは、主であり、正義の保護者であり、ハートの苦悩を聞いている神、クリシュナに、助けを求めて祈りました。

神は万人のハートの中にいます。神は一切です。皆さんは神が『バガヴァッドギーター』の中でこう述べていることを知っていますね。

マンマナー バヴァ マドバクトー

マド ヤージー マーム ナマスクル

マーム エーヴァイシヤスィ ユクティヴァイヴァム

アートマーマム マトパラーヤナハ


私に心を定め、私を信愛せよ

私を礼拝し、私の前にひれ伏し

私だけを目標とし、私への信仰に定まるならば、

あなたは私に到達することができる

〔『バガヴァッドギーター』9章34節〕

ここで言う「私」とは、万物の中に存在する「私」、つまり、原子の中にも神の化身(アヴァター)の中にも存在する、真の「私」であるアートマのことです。自殺しようと考えている人でさえ、「私は死ぬしかない。そうすれば、一切の悩みから逃れて、幸せになれるのだ!」と断言します。肉体が剥(は)がれ落ちたときに解放される「私」は、アートマです。

個我の「私」は、自分が限定されたものであると信じていますが、それは錯覚です。個我の「私」は、自分を有限のものだと思っていますが、普遍なる神霊と同一です。この気づきは、知的分析の閃光(せんこう)、あるいは、普遍的な愛の閃光を通して、人にもたらされることができます。この気づきは、愛に関係した、自分は愛だと主張する、自己確認の行為なのです。

愛は神です。愛は手段であり目的です。ですから、無神論者は存在しません。というのは、何らかの種類の愛なしには、どんな生き物も存在しないからです。そして、何らかの種類の愛、いくらかの量の愛は、神性の火花でもあります。愛は恐れを知りません。愛は真理を促します。愛は平安を見出します。愛は信仰を築きます。愛は調和を増進します。


出典:http://www.sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_197011Yajna.html原典:Sathya Sai Speaks, Vol.10, Ch.36.